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災害を今に伝える史跡など知多地区

知多地区の被災状況

災害を今に伝える史跡等

  • 東海市、大府市、東浦町、知多市、阿久比町
  • 半田市
  • 武豊町、常滑市、美浜町、南知多町
  • 東海市の被災状況
    嘉永7年(1854)安政東海地震の際に加木屋村(現在の加木屋町)では、中川筋で堤の両側が1400間(一間は約1.8m)に亘って割れ、鹿持雨池では35間程、東平井雨池では15間程、平子雨池では35間程に亘って堤が割れています。また、家のひさしが落ちたり、塀などが倒れたりしています。
    明治24年(1891)濃尾地震の際に横須賀町では、社寺の常夜灯や墓地の石塔が倒れたりしています。
    「東海市史」には、昭和19年(1944)昭和東南海地震の際の東海市では、軟弱な地盤上に建てられた建物で被害が多く出ていたことが記載されています。
    また、大田町蟹田地内で行われた発掘調査では、江戸中期~近代の噴砂の跡も確認されています。
    東海市では、このほか、暴風雨や高潮によっても堤防の決壊や浸水被害が出ています。
  • 慈眼寺(海嘯紀念碑)
    慈眼寺(海嘯紀念碑)
  • 大府市の被災状況
    大府市では、嘉永7年(1854)安政東海・南海地震の際の状況が吉川村の文書からうかがえます。この地震では、奥池・惣左上池・神池の堤防と用水路、巡見道、奥池下次平新田、弥左池東などで31箇所の損壊がありました。
    昭和19年(1944)昭和東南海地震では、横根後田地内の境川堤防が崩壊し、川をせき止め、大きな被害が出ています。このほかに、共長小学校の校庭や周辺の道路に地割れができたり、建物が倒れるなどの被害が出ています。
    昭和20年(1945)の三河地震では、鳥居や常夜灯の倒壊も出ています。
  • 神明社
    神明社
  • 東浦町の被災状況
    東浦町では、宝永4年(1707)宝永地震、嘉永7年(1854)安政東海・南海地震、明治24年(1891)濃尾地震、昭和19年(1944)昭和東南海地震、昭和20年(1945)三河地震などの被災の記録が残っています。
    宝永4年(1707)の宝永地震では、緒川などの塩浜(塩田)が破壊しています。
    嘉永7年(1854)の安政東海・南海地震では、明徳寺川の堤防が決壊しています。
    明治24年(1891)の濃尾地震では、建物被害や、師崎街道で4箇所193間(1間は約1.8m)の陥没があったほか、藤江地区で海岸入江の堤防が陥落、橋梁の破損などの被害がありました。石浜地区では、明徳寺川の堤防が陥落、豆搗川の堤防が戌新田・川尻・西平地・入海田などで陥落、朝日新田・天王・成実新田で海岸の堤防が陥落しています。生路と藤江では、広範囲に破裂・陥没・崩壊・隆起・土砂の噴出などが発生しています。
    昭和19年(1944)の昭和東南海地震では、住居の全壊・半壊・破損が多数あったほか、開眼寺の山門が全壊し、入海神社拝殿・社務所、海印寺物置、藤江国民学校(現在の藤江小学校)校舎、藤江神社・稲荷神社の社務所なども破壊しています。道徳小学校の児童が疎開していた越境寺も壊れ、太郎兵衛新田南の堤防も陥没しています。県道にも大きな亀裂が入っています。
    昭和20年(1945)の三河地震では、建物の全壊・半壊のほか、地面に亀裂が発生しています。成実新田では地盤が沈下し、稲の植付けの後水浸しになり、収穫ができない状態になっています。

    知多市の被災状況
    知多市では、嘉永7年(1854)安政東海地震の際の状況を地域に残された古文書から知ることができます。松原村(現在の日長)の庄屋の古文書からは、家々の瓦が下がり、ひさしや壁が落ち、傾いた家が夥しく、池の堤にも地割れがあったものの、大きな被害ではなく、倒れた家もなく、津波も打上は少なかったことが伺えます。一方、中嶋村(現在の八幡)の庄屋の古文書では、大家の蔵や光明寺の庫裡まわりが壊れ、大きな津波が来たために、浜手の者は山手に走り上がったことが書かれています。
    「佐布里のあゆみ」には、明治24年(1891)の濃尾地震の際には、佐布里でも危険を避けるために小屋掛けして寝泊りしたこと、公共用溜池の堤の裂けた箇所を全部修理するための補助金を申請したことが記載されています。
    「岡田町誌」には、昭和19年(1944)昭和東南海地震では、岡田町の被害状況としてわかっているだけでも、全壊住宅20戸、半壊住宅101戸、全壊工場4棟、半壊工場3棟の被害を受けたことが記載されています。

    阿久比町の被災状況
    「阿久比町誌」には、宝永4年(1707)の富士山の噴火と地震により、崖崩れで田が埋まったことや家が倒れたことなどが記載されています。
    昭和19年(1944)の昭和東南海地震では、住居・非住居、工場・学校等で全壊・半壊が起こっています。草木小学校では、校庭に大きな地割れも発生しています。
    昭和20年(1945)の三河地震では、住居の全壊・半壊が発生しています。
  • 半田市の被災状況
    半田市では、宝永4年(1707)宝永地震の際には、乙川の塩浜で被害を受けています。
    嘉永7年(1854)安政東海・南海地震の際には、家屋の倒壊が多く、道路に亀裂が生じたほか、午ヶ池・古池が決壊しています。また、津波により下半田地区は浸水しています。
    明治24年(1891)濃尾地震の際には、下半田地区・上半田地区に家の倒壊あり、鉄道の軌道は破壊・屈曲しています。東午ヶ池が決壊し、康衛新田の堤防も決壊しています。また、地盤に亀裂が生じ、噴泥も発生しています。
    昭和19年(1944)昭和東南海地震の際には、建物の全壊・半壊が多数あり、各地に地割れも発生しています。阿久比川と半田港に囲まれた低湿地では、噴砂・噴泥・噴水が発生しています。特に中島飛行機半田製作所の被害が大きく、多数の人命が失われています。中島飛行機本工場のあった乙川駅付近は、窪地を埋めて造成されたとされており、地盤沈下などが発生しています。中島飛行機半田製作所で大きな被害となったのは、元禄時代に海を干拓した軟弱な地盤上に工場があったこと(山方工場)既存の工場を軍用機の組み立て工場として転用するために壁や柱を取り払ったこと(山方工場、葭野工場)なども要因の一つとされています。
    昭和20年(1945)三河地震の際にも、噴砂があり、家屋の全壊・半壊も多数ありました。
  • 北谷墓地(殉職者緒精霊之碑)
    北谷墓地
    (殉職者緒精霊之碑)
  • 雁宿公園(殉難学徒の碑)
    雁宿公園
    (殉難学徒の碑)
  • 雁宿公園(追憶之碑)
    雁宿公園
    (追憶之碑)
  • 半田市役所(東南海地震の碑)
    半田市役所
    (東南海地震の碑)
  • 雁宿公園(半田・戦災犠牲者追悼平和祈念碑)
    雁宿公園
    (半田・戦災犠牲者
    追悼平和記念碑)
  • 武豊町の被災状況
    嘉永7年(1854)安政東海・南海地震では池の決壊が多く、武豊町の中心部である旧長尾村では家の倒壊があり、津波もあったとされています。
    昭和19年(1944)昭和東南海地震では、住家・工場・学校の全壊・半壊があり、港湾施設に大きな被害が出ています。
    昭和20年(1945)三河地震では、師崎街道沿いの二階建ての商店2,3軒が、一夜にして平屋になったとの証言があります。
  • 富貴小学校
    富貴小学校
  • 常滑市の被災状況
    常滑市では、元禄16年(1703)元禄の関東地震、嘉永7年(1845)安政東海・南海地震の際に、建物の倒壊や津波による流出の被害を受けています。安政東海・南海地震では、海辺の堤が切れて人家に押入ったとあり、海岸堤防が決壊したことが伺えます。
    宝永4年(1707)宝永地震、明治24年(1891)濃尾地震、昭和19年(1944)昭和東南海地震などでは、建物が多数倒壊しています。
    「西浦町史」「大野町史」には、享保7年(1722)に、大雨後の津波により浸水被害が起きたことが記載されています。(地震の記載がないこと、この年に暴風雨があったことから、高潮があったものと思われます)。
  • 内宮御祭宮社
    内宮御祭宮社
  • 美浜町の被災状況
    美浜町では、嘉永7年(1854)安政東海・南海地震の際には、河和・野間で田畑・家屋の被害が大きかったとされています。上野間では、建物被害のほか、ため池の決壊、猿尾堤の決壊があったことが記録に残っています(猿尾堤は、本堤の決壊を防ぐため、洪水の際の水流を遮り水勢を弱めるための堤防の一種)。
    明治24年(1891)濃尾地震の際には、家屋・田畑・堤防等が破損し、相当な被害を受けたとされています。
    昭和19年(1944)昭和東南海地震では、美浜地区でも被害が甚大であったこと、河和では住家の全壊が報告されています。また、「庭に亀裂が入り、地面が盛り上がり、立って走ることもできず、屋根の土、壁の土が降り、村は砂煙に包まれた。冬季にもかかわらず庭に家財道具を持ち出し、むしろがけの仮小屋を設け生活していた人がいた」といった証言があります。
    昭和20年(1945)三河地震では、昭和東南海地震に比べ被害は少なかったものの、河和で建物の全壊・半壊、野間でも建物全壊がありました。
  • 甘露寺
    甘露寺
  • 南知多町の被災状況
    嘉永7年(1854)安政東海・南海地震の際には、内海地区では家屋の全壊・半壊があり、輪中堤にも亀裂が生じ、1.2~1.5mの津波も押し寄せています。海に面した多くの家屋が流されました。これに懲りて海辺に住んでいた人たちは、高台や海辺から離れた奥に引っ越しています。乙方村(現在の豊丘地区)では、山や往来が割れて沈み、田が割れ泥を吹き出しています。片名村(現在の大井地区)、久村(現在の山海地区)では大部分の建物が倒壊しています。須佐村・中須村(現在の豊浜地区)では津波によって家屋敷が流され、船が破損するなどの被害を受けています。
    昭和19年(1944)昭和東南海地震の際には、家屋・工場・学校は全壊・半壊し、地面が割れたり、盛り上がったりしています。
    昭和20年(1945)三河地震でも、家屋の全壊・半壊がありました。
  • 島弘法
    島弘法
  • 宝積院
    宝積院
  • 安楽寺(章魚阿弥陀如来)
    安楽寺(章魚阿弥陀如来)

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