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家族の声

 「家族の声」に説明は要らないでしょう。がん医療における家族の協力は、いくら強調しても強調し過ぎることは、ありません。そして、それだからこそ、家族の方々の努力、苦労が共有される必要があるとも言えるでしょう。

目次

  1. 娘はがんだけど、僕もがんなんだよね(79歳男性、肺がん)
  2. コンサートをありがとうございました(59歳肺がん男性の妻)

1. 娘はがんだけど、僕もがんなんだよね(79歳男性、肺がん)

 私は、若い頃から極めて健康。器械体操の選手としても君臨していた(ちょっとオーバーか?)自信のある身体を自負していましたが、定年半年位前から調子が悪く、ちょくちょく医者の門をたたくようになりました。診察の結果は心不全、種々薬をいただいて、やや慎ましい毎日を送ること、好きなタバコも控えるよう、出来れば止めなさい等々、とんでもない宣言を頂戴しました。何はともあれ、タバコはがっかりでした。愛していたピー缶と別れることのつらいこと、今思うとよくがんばったと思います。一日1.5缶(約70本)が明日から0本です。何だか美談のようですが、実は内緒で銘柄を変え、もう年だから大丈夫となまいきにも吸い続けました。あれから15年、天罰覿面、肺癌のお告げを頂きました。

 その日から、癌との闘い、いや! 長いつき合いが始まります。主治医の先生から右肺腺癌、手術により摘出することがベストと言われ、その目標に向って細部にわたる検査が始まりました。約1ヶ月、頭の天辺から足の先まで約15項目の入院生活が始まりました。元気一ぱい病院の廊下を闊歩するやら、シャツがけで病院中を走るやら、見舞客を玄関まで見送るやら、病院食を連日平らげるやら、見る見るうちにナースの皆さん、先生方の人気者。「若いくそじじい」と渾名まで頂戴、いつの間にか廊下で会う看護師嬢に口々に「どこが悪いの?」、「いつも元気やね!」、「まるで青年やわ〜」と皮肉なのかじゃま者扱いなのか……。同室の患者さんからも同じような言葉をかけられる毎日でした。
 それから40日、すべての検査が終り退院、自宅へ。病院の都合で再入院。細部についての打ち合わせ、検査。いよいよ手術に向っての準備をする精密検査の連続です。一週間後手術に決定。外科手術の先生からこと細かい日程の説明を受ける。ところが、循環器科より手術不能のクレームが出て変更しなければならなくなり、急遽、抗癌剤かライナック照射による治療に変更するとのこと、……。てなことで、私の希望により照射手術に決定したのです。要はこの心臓では手術後の生命は保証出来ないとのことなのです。やれやれ情け無い往年の万年青年はどこへやら、いよいよ病人か老人か?

 これから約一ヶ月、家庭待機となり気分的には体の中へ癌をかかえて半病人(本当は大変な病人です)の生活が始まるのです。妻も子どもたちも弟妹も親戚も大騒動! タバコのことではまるで犯人扱い、尋常ではない心理状態に陥る連日が私を責めました。これでは駄目、なんのなんの持ち前の暢気坊主になろう。自分の中での葛藤に苦しむ毎日でありました。何としても乗り越えなければ……。と考える足もとからくずれてゆく精神状態の中で『ケ!セラセラ』の真髄がチラホラ頭をかすめるようになってきました。
 どう考えてもどうにもならない事に何を考えることがあるのか、与えられた現実に逃げるのでは無く明るく突き進むことが最良であると言い聞かせ、私ばかりが苦しいのではない!多くの人々がその苦しみを乗り越えて立派に立ち直り病魔と闘って生きているではないか。くよくよしても一日、気にしても一週間もがいても一ヶ月。ケ、セラセラとは、どうでもいいでは無く、どうでも良くなる努力を自分ですることだと思うようになりました。

 いよいよ癌との闘いの日がやって参りました。約一ヶ月をかけて癌腫瘍にX線を照射して焼き潰すという治療です。初日は照射部位のマークをつける準備日ということで上半身裸で大きな機械の上へ。約40分位色々なテストをくり返し乍らマークをつけていきました。寒いの寒くないの、裸で暖房の無い特別室(本当は暖房が入っていたのだそうです)での辛抱で、案の定風邪をひいてしまい、何とかしないと肺炎にでもなったら大変と、苦肉の策を考えて980円のシャツに照射部分(約12cm四方)の穴をあけ、シャツを着たまま照射出来るよう工夫???をして、二日目さっそうと照射室へ。「上半身裸になって下さい」技師の先生のことば!そのままベッドへ上がる。先生の目が穴のあいているシャツの上へ……「なんじゃこれ」驚きとやや怒ったような声。「すみません。こんなことしてしまいました」と私の弁解がましいことば。後は二人で大笑い。「なかなかいいアイデアだね」と先生のお褒めの言葉。「今だかつて、こんなことを考えた人はだれも居なかった」、「なまけ者か、天才かどちらかだね」。照射が終わって意気揚々と病室に帰ったのは言うまでも無いことでした。あくる日診察にみえた主治医の先生も、ベッドの上で穴あきシャツを着ている私を見て、初めは驚いた様でしたが、「よく考えついたね。たとえ考えたとしても穴をあけて切ってしまうことはなかなか出来ないね」と上機嫌で帰っていかれました。色々なことがあり無事二十回の照射が終わろうとしている頃、主治医の先生から「三十回にします」と突然言われ、「あれ! 先生、20回が限度です、それ以上は危険ですと言われていたのに、大丈夫ですか?」と問いただすと、「あなたは極めて元気だから心配ないでしょう」との返事。某大学の教授も「やってみよう」とお墨付きですとのこと。あー!
 とうとうモルモット! これこそケ、セラセラでいこうとシャツの穴から窓の外を眺めて悲しいやら嬉しいやら……。とうとう年末から正月も連続で入院。二泊三日の外泊だけを許されて、一月中頃まで病院住まい。これで約40日の癌撲滅作戦が終了しました。終了後各種検査をしていただき、主治医の先生から「大へん良くなっています。殆ど跡形も小さく心配ないようです」と太鼓判を押して戴き一週間後勇気百倍退院をいたしました。

 約一ヶ月、嬉しい楽しい自宅での療養生活が始まりました。ところが、放射線性肺臓炎が突発。高熱、咳、ふらつき等、二日目救急車にて病院へ。“ああ、無情”五本の管をつけられて身動きの出来ない病人として集中治療室の患者に成り下がりました。何でも照射した肺から出血が強く、出てくる痰が真っ赤で一日に何十ぺんも出す状態でした。やはり、照射の副作用として出てきたのかな? 「何も無い事などないよね」と自分に言い聞かせる毎日でした。
 そして、またまた一大事。付き添いの妻が自動車にはねられる事故発生! くわしいことははぶきますが、集中治療室に横たわっている妻の介抱をするはめになり、患者が付き添いを逆にみなければならなくなりました。何やら情けなくなり途方に暮れる毎日でした。なにはともあれ、約一ヶ月でめでたく退院。やれやれ。
 さらに、その四日後、娘が体調不良を訴え病院に検査入院。一ヶ月の入院で、どうも癌くさいとの診断を頂戴しました。そこで、大きな病院で……と診断を試みるもどこに出来ているのか不明。どうもこの辺らしいが……と判然としない。最終的にがんセンターへ。さすが、がんセンターは、すぐ「婦人科」だと診断。婦人科の先生に子宮肉腫を見つけてもらい、すぐに手術になりました。5月に入って間もなく、手術日当日です。随分進行していて広範囲に広まっていたらしく、計画の倍の時間をかけて手術して頂いたそうです。感謝々々!
 夫婦(じじ、ばば)そろって娘の看病! 何でこんなに病院に好かれるのか情けない。でも、がんばらなくては……と持ち前のノーテンキ、ホーワイラーで夫婦でホテル住まい。病院内のソファーの上、机の上、自宅でと、自動車があればこそ出来る極めてハードな生活を余儀なくされました。いつの間にやら自分のことばかり書き連らね、失礼を。

 ここからが「家族の声」本論ということになりましょうか。癌の宣告と同時に死に直面した末期患者になりきっていた娘に対し、がんセンターのスタッフの先生方をはじめナースの皆様方による温かい看護のお陰で、病状は回復に向かいました。さらに、小森先生の精神的ケアにより活気を取り戻しはじめた毎日を、病室で共に体験させていただいたことが、嬉しかった。内科、外科的治療も大切ですが、精神的診療の必要性・重要性を身に持って理解出来ました。最近では小さい頃のニコニコ○○チャンにもどり、妻(バーサン)とも嬉しい日々を送らせて戴いております。

 (またかと言われそうですが?!)私自身は、その後、小康状態で楽しく生活をして居ります。たゞし、心臓の方が弱く、在宅治療として酸素吸入の毎日です。特に、夜は「仮面ライダー」顔負けのマスクを被り、情け無いやら苦しいやらですが、時々はずしては楽しんで居ります。 暦の上では秋がそこに来て居りますが、まだまだ残暑が強く、充分御自愛の上御活躍下さることを祈り お礼の言葉といたします。スタッフ、ナースの皆様方にも呉々もよろしく御伝言賜りますようよろしくお願い申し上げます。

2. コンサートをありがとうございました(59歳肺がん男性の妻)

 はじめまして。
 現在、主人は、がんセンターのICUでお世話になっています。人工呼吸器が付き、うごくことも話すこともできない状態です。

 そんな父親の笑顔が見たいという娘と息子の願いを、先生や看護師の方々がかなえてくださいました。1月9日に、まだチェロを勉強中の娘のミニコンサートを開いてくださったのです。このようなところでの、まさかの出来事に感激し、人との出会いの素晴らしさを感じました。

 人工呼吸器の付いた主人をメインホールまで運んで頂くのは、大変なことでした。ICUの方々は、お忙しい中、本番に向けていろいろ手はずを整えてくださり、胸部外科の先生方や看護師さんたちが主人を取り囲むようにして、会場まで連れていってくださいました。

 娘の演奏する30分間のあいだ、主人は目に涙をこらえ、じっと演奏を聴いておりました。本当にすばらしい30分間でした。

 現在もただただ、主人の笑う顔を楽しみに、すこしでも希望を持って生きてほしいと願いながら、わがままを言い、ICUの方々に迷惑をおかけしているような気がします。

 最後に改めて、がんセンターの先生、看護師、そのほか職員の方々に、心よりお礼を申し上げると共に、入院中のみなさまのご回復を心より願っています。

(コメントに代えて/コンサート用パンフレット+α)Nさん、チェロ、そしてレーガーのこと

 「ああ、そういえば、ゆうべ、レーガーの無伴奏チェロ組曲第3番を聴きましたよ」
 昨年の12月にNさんとはじめてお会いしたときに、わたしがこんなことを言わなければ、きっと今日のコンサートは実現しなかったのではないかと思います(すこし大袈裟ですが)。わたしのことばに、彼女はとてもびっくりされました。
 Nさんは、京都の大学でチェロを学ばれた後、ドイツのカールスルーエ Karlsruhe という街の大学で、引き続き研鑽を積まれていますが、今、練習されている曲が、なんと、そのレーガーの第3番だったのです。また、彼女の先生はアンドレ・ナヴァラというチェロ奏者の一番弟子だったそうですが、わたしが学生時代、夏休みにヨーロッパをふらふらしていた頃、イタリアのシエナという小さな町で聴講した公開レッスンでチェロを教えていたのが、ナヴァラでした。とても生き生きとした楽しい授業でした。こんな話をしているうちに、「では、春休みに帰省されたときには是非、がんセンターのホールで演奏してくださいね」という約束を取り付けるまでになりました。

 西洋音楽は、150年周期で発展していると言われています。1450年以降のルネッサンス、1600年以後のバロック、1750年以後の古典派、ロマン派、そして1900年以降の近代・現代音楽です。そんな中で、独奏楽器としてもてはやされる楽器も、リコーダーから、ヴァイオリン、ピアノと変遷し、20世紀に入ってからは、チェロがその座を奪い、協奏曲にも最も多く使われるようになりました。ただし、現代音楽は、一般的にほとんど聴かれることはありませんから、チェロの人気は未だに地味なものです。
 チェロはもともと、独奏楽器としては認められていませんでした。からだから腕を離さず弾くべしという演奏法によって、現在のような音は奏でられなかったからです。しかし、スペインのチェロ奏者パブロ・カザルスが、まだたった12歳半のときに、バルセロナの古書店で、バッハの無伴奏チェロ・ソナタという当時すっかり忘れ去られていた曲を「発見」したのが、大転換のきっかけとなりました。彼は、12年間毎日その曲集を練習し続け、1901年25歳のときにようやく大衆の面前で弾くことにしました。驚くべきことに、それを録音したのは、さらに35年後のことです。いずれにせよ、彼が伝統的演奏法を破棄し、現在のような演奏法を確立したことによって、ようやくチェロは、独奏楽器となったのです。

  1450 1600 1750 1900
中世音楽 ルネッサンス バロック 古典派、ロマン派 近代・現代音楽
合唱 リコーダー ヴァイオリン ピアノ チェロ
    バッハ モーツアルト レーガー

 さて、マックス・レーガーは、1873年生まれのドイツ人作曲家です。父親からオルガン、ヴァイオリン、チェロを、そして母親からピアノを学びました。父親が村の校長先生だったので、自分も教師になるつもりでしたが、13歳のときバイロイトで『パルシファル』を聴いて、作曲家になる決心をしました(このあたり、1870年生まれのベルギー人作曲家ギュローム・ルクーがバイロイトでワーグナーの楽劇を観劇中感動のあまり失神したのと似ていて、レーガーのピアノ三重奏曲作品102がルクーの作品とも共通する雰囲気を持っているのもうなづけるところです)。レーガーは、音楽院教授などを歴任後、1915年イェナへ移住し作曲に専念したものの、その翌年に、心臓発作のために43歳で急死しています。バッハの影響が大きく、ブラームスをも尊敬していたようです。「作品1から19、そして25は、ナンセンス」と自らの仕事にも厳しい人でした。
 レーガーが無伴奏チェロ組曲を発表したのは、1915年。これは、コダーイが無伴奏チェロ・ソナタ作品8を発表した年でもありますが、カザルスがバッハの無伴奏組曲を(録音は未だとはいえ)ヨーロッパで演奏をはじめた後ですから、その影響を受けてのことでしょう(ただし25曲にもおよぶ無伴奏ヴァイオリン・ソナタをバッハ以来はじめてレーガーが作曲しはじめたのは、1899年です)。ちなみに、わたしがレーガーの室内楽CDボックス、8790円を10年近く前に衝動買いしたのは、23枚のCDのうち7枚が無伴奏モノだったからです。わたしの聴いた限り、彼自身が「これまで書いた室内楽のうちの最高作品!」と評したチェロ・ソナタ作品78、それにモーツアルトやブラームスのものと比肩し得るクラリネット五重奏曲作品146、そして彼自身の葬儀で演奏された第2楽章ラルゴを含むヴァイオリン・ソナタ作品139などがお勧めです。

 レーガーの無伴奏チェロ組曲を名古屋で生で聴ける機会は、まずないでしょう。さあ、30分ほどの短い時間、思う存分楽しみましょう!!!

レーガー
参考CD
V.A., Max Reger:Die Kammermusik,DA CAMERA MAGNA 77501-23,1998
Guido Schiefen, Max Reger:Cello Suites Nos.1-3, Arte Nova 74321 65428 2, 1999
アニア・タウアー、ドヴォルザーク:チェロ協奏曲、レーガー:無伴奏チェロ組曲第3番、PROA-62, 1968/2006

追記。話に落ちをつけるつもりはまったくないのですが、実は、「ああ、そういえば、ゆうべ聴いていた」のは、レーガーではなく、ブリテンの無伴奏チェロ組曲第3番(1971年)でした。これも、(ロストロ・ポーヴィッチの弾いた)バッハの無伴奏チェロ組曲にブリテンが感動して作曲されたものですから、まあ、背景はよく似ているんです。くどいようですが、「レーガー」と言い間違えて良かった!

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