トップページ > アンチ・キャンサー・リーグ > 特別企画(第1話)

特別企画(第1話)

佐藤さん、乳がんの38年を語る

 2006年8月19日土曜の午後3時、乳がんサバイバーである佐藤さんへのインタビューが、実現しました。私の家族とは、ここ数年、ご自宅が近いこともあって、懇意にさせてもらっていましたが、私とは初対面。夏の強い日差しの下、佐藤さんは、墨色のジャケットに細身の白いパンツで、颯爽と登場されました。(インタヴュアー/小森康永、精神科医)

 そもそも母が66年に亡くなっているんですが、その前の年の入院中に土曜の夜は見舞いに行っていて、個室だったので、泊まっていたんですね。それで、ある日曜の朝、何かの拍子に左胸にさわったらグリグリがあったんです。母は乳がんかもわからんと言ったんですが、脂肪の塊だわって放っておいたんです。ところが68年になって、39歳でしたが、仕事中でも両肩がだるくてね、五十肩だわなんて言われても、そんな歳じゃないし、そうこうしているうちに夜中でもだるくなってきてね、姉に話したら、診てもらった方がいいわっていうことになって。結局、愛知県がんセンターに妹と一緒に行きました。兄妹は6人いて、私は五番目で次女です。ひとり戦死した兄以外は、皆、今でも元気です。母親は胃がんで、父親も肝臓がんで死んだんですけどね。
 まず外来で、「これはいかん」って。小豆粒くらいだと言ったのに、先生は3センチ四方だとおっしゃって、その日の午後に調べることになりました。調べられた二人のうちのもうひとりの方は、乳腺炎でしたと帰っていかれたのに、私は、つかまっちゃいました。それで「切りましょう」とおっしゃるんです。当時は、「結婚」という二文字が頭の中に残っていたのに。先生は、「切りましょう」「取りましょう」と言われました。「なんで切るんですか?」と聞くと、何もおっしゃらないんですね。当時は、告知ということはなくって、「切りましょう。今は切れるけど、切れなくなったら、僕たちも手を出せませんし、独りで苦しまないといけないから」と順々に説得なさったの。処置室で、一時間くらい。それで、私、くやしくなっちゃってね。くやし涙がポロポロ出て。妹は「怖かったらから泣いたの?」なんて聞きましたけど、冗談じゃない、くやしくて、くやしくて、「なんで私だけがこんなふうになったのか」って。先生達はびっくりされちゃってね、気の毒なくらい。そのとき、涙は全部、出ちゃいました。じゃあ仕方ないから、手術しますからということで、ようやく帰らせてもらいました。
 ところが、当時、私は15階の高層住宅に住んでいて、自殺の名所って言われたくらいですから、姉が心配しちゃって、仕事を休んで、手術で入院する前の1週間はずっと泊まり込みで一緒にいてくれました。その前にね、会社を休まないといけませんから、診断書を書いてくださいって言ったんですね。そうしたら、書いて下さって。密封してあったのを部屋で封切っちゃってね。見たら、「左乳がん」とちゃんと書いてありました。仕方ないですね。先生の口から聞きたかったんだけど、絶対そうはおっしゃいませんでした。自分では自覚して、入院しました。今は、本人が納得するように「乳がんですよ」っておっしゃるそうだけど、そういうふうに出し抜けに言われたら、いいのか悪いのか。私は、自分が悟ったのが良かった。先生達は、がんとは口にしないけれど、もうそれは分かっているということになりました。
 私の場合、リンパ腺転移度ゼロということで、先生がすごく喜んでくださいました。早く元気になって勤めに出ようねって。一番大変だったのは、当時は、あばら骨がぜんぶ見えるくらい胸の筋肉を全部取っちゃったんですよね。わーっていうくらい。それで、ノースリーブが着れないのはいやだと言ったら、大丈夫大丈夫って、大腿部の筋肉を取ってここに貼ってくださったので、つるんとした皮膚になって、ノースリーブは着れました。でも、当時は、ミニスカートが流行っていたのに、ミニははけなくなりました。脚は紫色になっちゃってましたからね。本当に、いい先生でした。泣いていたら、結局、彼がいると思われていたようで、「もしも結婚されるのなら、僕たちの方からも話しますから呼びましょうか?」って。とんでもない、私なんか仕事仕事で彼のかの字もないのに。まあ、いい人がいたら、尊敬できるような方がいたら、なんて思ってましたけど、結局、結婚しませんでした。
 手術後は順調でね、みなさん食べれないなんておっしゃっていたけれど、私はモリモリ食べました。食べないと回復しないし、帰れませんがねえ。看護婦さんたちが、私は優等生だって。いつも完食するから。それから、5年間は「お解き放し」ないですからね。小刻みに検査がありました。副腎に転移するといけないって、先生は心配してくださいました。なんでもいいから病気になったら、ここへ来なさいとも言われていました。あるとき、腰痛で行ったら、便秘だって言われちゃってね。そのくらい、親切な先生でした。5年目に、先生が、「完治というわけではありませんが、転移の時期は越えました」って。

 
再発の心配は、どうでしたか?

 あります。あります。何かにつけてです。からだの異変があるたびにね。肩が痛いとか。今はずうずうしくなっちゃってね、ここにしこりがあるんですけど、もう構いません。この歳になって、手術なんていやだし、私、満足していますから。
 がんで手術したことで勇気を与えられたというんでしょうね、それからスキー始めたんですよ。47歳で。友だちがよかったからね。会社の男の子達がね、連れてく連れてくって、当時は大日岳で、一日スキー・コースに入ったんです。そのあと栄養士の友だちが赤倉に連れて行ってくれて。翌年は北海道へ行きました。あの当時は、北海道でもスキー場少なかったのにね。その子もね、いつ再発するかわからないからって同情してくれてたんでしょうね。そんなことはっきり言いませんけどね。七つくらい若いのに、その方に引っ張られてね。今でも、スキー靴履きたいと思います。
 そうこうしているうちに、86年に胃に腫瘍ができました。57くらいのとき。また肩が痛くなったので、がんだと思い、がんセンターに行ったんです。でも五十肩って言われたんです。それで会社の定期検診は受けたんですね。そうしたら、胃の検査のときに、バリウムを飲むのに、炭酸が入っていて、飲んだ途端にゲップゲップ出ちゃったんです。こらえるどころか、ゲボッと出るので、何かあるなと思いましたよ。そうしたら、すぐ電話があって、胃に影があると言われました。それで、がんセンターへ紹介してもらいました。内科で内視鏡したら、腺腫というもので、いずれがんに変わるかもしれない腫瘍ですが、先生は今すぐ切りなさいとはおっしゃいません。でも私自身が、それを聞いた途端に「病気」になっちゃったんです。食事はしたくないし。胸がつかえて。「こんなことでは仕事できないから、先生、切ってください」って。それで1週間検査されて、切ろうかということになりました。それで胃は三分の二切りました。
 それからは、書道をやってたものですから、みんながね、なんだかんだと言って、ひっぱりだしてくれました。食事なんかね、なんでそれだけしか食べれないんだって、もっと食べなさいって。結局、それで胃を拡げたんでしょうね。お寿司も平気で一人前食べれるようになりましたよ。私、病気は忘れました。そりゃ、胸を見れば分かりますが、胃の場合は閉ざしてありますからね。忘れてました。はっきり言って。それで、書道でね、下の人たちが賞をもらって、だんだん上がっていくんですね。もうこんなことしとったら、あかんって。負けず嫌いでね。うちの会社は、45歳で女性は定年でした。ところが、お得意さんから是非うちに来てくれって言われて、嘱託なんか頼りないので、45歳で会社を変わりました。それで自由な時間ができたので、書道を始めたんです。一緒にいる生徒さんたちがみんな若いから、いい気になっちゃってね、歳なんか忘れてますよ。馬鹿だからね。私は、39歳の時に自分の人生が終わっちゃったんです。止まっちゃったですがね。胸取られて。で、そのとき、半分、自暴自棄だったんだけど、でもね、いざ、45歳定年と言われたらね、そこで定年になってから何しようなんて考えても遅いから、私は、書が好きだったから、書をしようと決めたんです。それから、全然病気のこと、憶えていません。
 病気が併発するのは、時期の問題もあると思いますけど、ご自分で作られるところもあるんじゃないかと思います。私も家にいたらダメだったと思います。「病いは気から」と言われますが、私も、胃がおかしいと言われたときがそうですよね。悪いところはぜんぶ取って頂いたのなら、そこで、忘れられないとね。胃にできたときも、そういう体質なんだと思いましたし、それで、がんに変わる前に取ることが大事だったんだと思います。「病気を忘れてしまいなさい」とは、言いませんけどね。

どうして病気を忘れられたと思いますか?

 結局、私はいろんなことをしましたね。友だちがよかったんでしょうね。しばらく連絡が途絶えていたのに、あるとき名港線でばったり再会したんです。私、ヘアスタイル変えてなかったので、分かったそうで、声かけてくださったんです。「私、胃も切ったのよ」って。そうしたら、「海外旅行行く気力ある?」って、あるどころか、行きたい、行きたいって。それで、いろんなところへ連れて行ってもらいましたがね。北欧が最後でした。次は、本当はアンデスへ行きたいんです。ノルウェーだったか、アンデスの人たちが路上で演奏している音楽を聴いて、その楽器にすごく引き込まれて、そこでCDも買ってね。でも友だちは心臓に病気があるので、もう行けないって。そうそう、以前、先生から頂いた、札幌にいるお友達のフォルクローレのCD(1)も、よく聴いていますよ。
 でも、そのうち、また、病気になっちゃいました。胆道結石。1998年、69歳のときでした。スイミングスクールから帰ってきたら、すごい腹痛で、かかりつけの開業医さんに診てもらったら、肝臓の数値が100倍以上だって。だから、がんセンターへ紹介状を書いてもらったのね。がんセンターは、新しくなっちゃってて。切ってくださいって言ったら、レーザーでやりましょうって。それで、翌日、入院。ところが、手術時にお腹に空気をいっぱい入れたところで血圧が下がって、中止になりました。翌日、もう一度挑戦したんですが、また、やれなくなっちゃってね、それから、私、寝たきり状態。2週間後に出血もあって、輸血もされてね。そのまま死んじゃうかと思いました。これで最期だと覚悟は決めました。妹には、密葬にしてくれるよう頼みました。結局、K病院に搬送されました。透析ができるからって。でも、そこですごく良くなりました。
 よっぽど私は生きるってことに、あれなのか。K病院の副院長がね、お腹からの管なんかが8本くらいからだから出ているのに、「歩かないかん」っておっしゃるのね。なんていうひどい先生なのかしらと思ったけれど、今になって思えば、それが良かった。何クソ、なんて思っちゃって、「隣の人は歩いとるがね」なんて言われたら、なんで私そこまで言われないといかんの???って、負けてたまるかって。また、負けず嫌い。看護婦さんがあんまりいいわいいわって言うのもだめでね、結局は、本人次第なんですよ。いくら名医が執刀したってね、本人に生きる気がないとね。半分、気力ですよ。フィフティ・フィフティなんです。そういうふうにさせるのも先生たちですけどね。

気力を奮い立たせるコツがあるのですか?

 コツというよりね、そういう環境に置かれとったんじゃないかしらね? 海外旅行だって、どこかにがんが出たらね、もうダメだから、生きとるうちにいろんなことやっとかないとね。だから誘われれば二つ返事で。その人もあなたがいいって。1週間も一緒に旅行すると、他の人だとたいていいざこざが起こるから、あなたがいいわって。私、旅行では絶対服従ですから。だから、言うなら、人から嫌われないことがコツってことにもなるかもしれないけど。医療現場では、先生との相性も大事ですよね。
 それから、私ね、結婚してたら、もう死んでるかもしれない。何を置いてもね、書があったから。だってね、毎晩夜遅くまで書を書いていて、自分ながらよくからだがもつなって思いましたもの。背中が痛くなるまで、作品作ってましたから。普通の家庭の奥さんでしたら、家のことやらないといけないし、暇があれば、家族のことを考えますから。だから、ああ結婚しなくて良かったって。乳がん切る前に、実は、母親がいよいよだめだというときに結婚を勧められたんですけど、断ったんです。乳がんになったときは、結婚しなくてよかったと思いました。兄妹にも、病気のことはあまり話しません。心配かけるのいやだから。姉なんか87歳ですけど、「私を見送ってから、逝って。それまで元気でね」なんて言ってます。結婚しなかったので、自分の好きなことを思い切りできたということもあるかしら。でも、結婚していても、乳がんで離婚する方もみえるわけですしね。私の言ったことは、誰でもあてはまるわけじゃないでしょうけど、自分を強くしないといけないってことですよね。

それは、「自己効力感」って呼ばれていて、自分が何かをすることで効果が発揮できたという感覚。今、精神療法では一番関心がもたれているものですよ。

 ひとりで良かったと思うことが多いですね。はじめは「結婚、結婚」って憧れてましたけど、こういうことになったら、割り切れちゃいましたね。だから結局、その方の考え方です。でも、お医者さんは患者さんに「がんばりなさい」と言うだけでもダメですしね。私は、自分を信じて、自分しか頼りませんでした。人に頼るなんてことはないですよね。結婚もしてなくて、子どももいませんから。自分のことは自分でするという考えでしたね。

その独立心を持つに至った手本になったような人は、いるのですか?

 ないです。手本にすると言っても。あのお。手術したときに、自分で生きると覚悟しましたよ。きっかけは、それですよ。結婚しないなら、ひとりで生きないといけない。結婚しないという決心は、胸を取ってしまって、ひとつになっちゃったから、そんな醜いからだは見せたくないというのが、理由です。でも、みなさん、そうだと思いますよ。最近、結婚していない方も乳がんになるそうですけど、私なんか、やはり結婚している方とは、なかなか話せません。

最近は、がんを期に、ライフスタイルを大きく変えるという方が多いようですが。

 私、お肉が大好きだったので、今は、お野菜ばかりです。胃を切ってからね。乳がんのときは、お肉が大好き、お魚きらいで。食事も全部じぶんで作ります。でも、ライフスタイルより、独立心の方が、私の場合は、大きいですよね。

身近な人のうちで、佐藤さんの独立心を近くで見ていて驚かなかった人は、どなたかいますか?

 どなたかというか、会社では、がんになる前から、あんたは男に生まれてくればよかったのになって言う人はいましたね。支店長には、女ではなれませんからね、当時。経理というのは、お金の問題が起こりうるところですから、しっかりチェックしないといけません。それで、きついとか怖いとかはよく言われましたけど。仕事なのにね。そのときは、仕事でそうなっていただけなんですよ。
 乳がんで、ひとりで生きようと決めたんですね。でも、それってなまじっかじゃないですよ。老後にね、定年になって何していいか分からないでは、いけませんからね。そういうことを考えるときに、乳がんをしてましたから、何を糧にしようかと。年金で生活はできても、それだけではつまらないから、せめて書でもやって、ご近所の方の為になりたいって。それを先生に話したら、「いいぞ、俺がプロにしてやる」って、しごかれたんです。胃がんの手術のあと、58歳で会社は辞めました。そこで、助講師になって、10何年。でも、胆道結石を期に、辞めました。

病気が、少なくとも職業人としての人生を形作っているわけですね。

 だからね、乳がんになってなかったら、結婚していると思います。もしも結婚後に乳がんになってたら、こんな人生ではなかったと思います。病気を上手に利用したって感じしますか? 「がん、イコール死」というのを頭から抜くのがいいでしょうね。ご自分の気力で、撲滅を狙ってください。それから、病院は、暖かみを忘れないで、頂きたいですね。世の中の流れだから仕方ないというだけじゃなくて。昔は、徹底的に治してから退院させたものですからね。でも、私、こんど病気になったら、本当、どこに行けばいいのかしらね?(笑)
 最後になりましたが、私に関わって下さった諸先生方や看護師さんたちに、心から感謝の気もちを述べたいと思います。現在、私がこうして38年のインタビューなどというものを受けられるのも、こうした方々のおかげなんですもの。

インタビューを終えて

 佐藤さんとのインタビューには、特に事前に質問事項を用意するようなことは、ありませんでした。きっと、ご自分のお話を、私が訊ねるまでもなく、語って下さるだろうという気がしていたからです。
 欧米では、最近、がんを生き延びた人たちを「サバイバー」と呼び、いかに当事者がショックから立ち直り、前向きに生きていくことになるのか、その転機について多くの研究が、蓄積されてきています。私たちも、『サバイバーと心の回復力』(2)という本を読んでいたときに、それは、問題を多く抱えた家族で育った人たちだけではなく、長い病気に対する人々の態度にも同じことが言えるのではないだろうかと思っていました。「雨降って、地固まる」という人生行路ですね。佐藤さんのお話には、そのような立ち直りの早さ(これは「リジリアンス」resilienceと呼ばれています)が、満ち充ちていたように思います。そして、リジリアンスを養う、「独立性」、「関係性」、「創造性」や「ユーモア」も! 正に、こんなお話。

 ある王様がかつて、大きくてきれいで、純粋なダイヤモンドを持っていました。どこにもそれと同じものはなかったので、王様はとてもご満悦でした。ところが、ある日、ふとしたはずみで、深い傷がついてしまいました。王様は、その国でもっとも腕のいい宝石職人たちを呼び集めて、宝石をもう一度傷のない完璧なものにした者には、多大なる褒美を取らせようと話しました。しかし、誰にもそれはできませんでした。王様がたいそうがっかりしたことはいうまでもありません。ところが、しばらくたって、ひとりの天才的な職人が王様の前にあらわれ、傷がつく前よりももっと美しい宝石に変えてさしあげましょうと言いました。王様は、その男の自信に満ちた言葉に心を打たれ、高価な宝石のケアをまかせました。その男は、約束を見事に果たしました。その巧みの技で、男は、傷のまわりに愛らしいバラのつぼみを彫り上げたのです。(ジェイコブ・クランツ『ダブナーなストーリーテラー』)

月の音、聴いてる(表紙)


1)ティンクナ:月の音、聴いてる. TINKUNA-02, 2001
2)ウォーリンとウォーリン:サバイバーと心の回復力、金剛出版、2002


このページのトップへ