鳴海宿・宿場手控え
宿番号 40番
区間距離 3里30町00間
逓加距離 87里21町47間
総人口 3,643人
総家数 847軒
本陣 1軒
脇本陣 2軒
旅籠屋 68軒
池鯉鮒を離れ、逢妻大橋を渡った東海道は、三河(刈谷市)と尾張(豊明市)の境界を流れる境川にさしかかります。この川に架かっていた境橋は、三河側が土橋、尾張側が板橋という継橋として有名な橋でした。そして、現在でも街道の両側に塚が残り、国の史跡に指定されている阿野一里塚を過ぎ、織田信長の名を全国に知らしめた桶狭間の古戦場へと向かいます。
 しばらく進めば、間の宿として栄え、また絞りでも有名な有松。「東海道中膝栗毛」では、店の主人との滑稽なやりとりの末、弥次さんが手ぬぐいを一枚分買った場面で登場する所です。有松を過ぎれぼ、間もな鳴海宿(名古屋市)。本陣一軒と脇本陣二軒が設けられていた鳴海宿は、当時は有松とともに絞りで知られ、広重の「東海道五十三次」に描かれた三点ともに絞りを扱う店が登場しています。この宿の誓願寺には、没した翌年の11月に建立されたという最も古い芭蕉の供養塔があります。

桶狭間古戦場伝説と絞りに出あう宿


桶狭間古戦場伝説地
 
永禄3年(1560)5月19日、織田信長と今川義元が戦った桶狭間古戦場跡と伝えられている場所の一つ。現在は公園として整備されており、圏内には文化6年(1809)に建てられた「桶陝弔古石碑」のほか、万延元年(1860)の義元三百回忌に建てられた「今川義元供養塔」で、国指定史跡となっています。古戦場をしのぶ石碑類や史跡が数多く残されています。
有松の町並み(服部家住宅)
  東海道の開設によって生まれた有松は、有松絞の産地として発展しましたが、天明4年(1784)の大火によって町のほとんどが焼失。その後の復興で、卯建を設けた塗籠造、なまこ壁、二階の虫篭窓、瓦葺の屋根を特徴とする町並みが作られました。中でも服部家住宅は、当時の有松を代表する町屋建築で、県指定文化財となっています。
瑞泉寺
  大徹禅師を開山として、応永11年(1404)、鳴海城主安原宗範が平部山に創建した曹洞宗のお寺。文亀元年(1501)に今の地に移建されましたが、明暦2年(1656)の火災で焼失。その後、寛保元年(1741)より呑舟の手で中興されました。境内には宝暦6年(1766)に建てられた本堂のほか、重層本瓦葺の黄檗風四脚門の総門(県指定文化財)、庫裏、玄関、書院、僧堂、さらに秋葉堂、鎮守堂などが並び、鳴海第一の大寺の景観を誇っています。
根古屋城(鳴海城)跡
 
応永年間(1394頃)、安原宗範によって築かれた鳴海城は、西は星崎城、南は大高城と相対し、かつては東海道の要所でした。永禄年間(1558頃)に今川氏の岡部五郎兵衛長教によって古城が修理されましたが、その後「桶狭間合戦」で信長軍に攻められて落城し、間もなくその歴史を閉じました。往時をしのぶものとして、現在は大きなムクノキの下に小さなほこらがまつられています。
誓願寺(名古屋市緑区鳴海町)
  芭蕉が没した1ヶ月後の元禄7年(1694)11月12日に、鳴海の門下達によって建立された供養塔。表に「芭蕉翁」、裏に「元禄七年甲戍年十月十二日」と刻まれたこの碑で、市指定史跡となっています。芭蕉供養塔としては日本最古のもの。初めは如意寺にありましたが、誓願寺に芭蕉堂が建てられたために移され、、現在はそのお堂の左側の木立の陰にひっそりとたたずんでいます。