宮宿・宿場手控え
宿番号 41番
区間距離 1里24町00間
逓加距離 89里09町47間
総人口 10,342人
総家数 2,934軒
本陣 2軒
脇本陣 1軒
旅籠屋 248軒
 鳴海宿を後にした東海道は、天白川を渡り、道の片側だけ残る笠寺の一里塚を過ぎ、天林山笠覆寺、通称笠寺観音をのぞみながら尾張最後の宿、宮宿(名古屋市)に到着します。
 三種の神器の一つ草薙剣を祀り、日本武尊の伝説が伝わる熱田神宮の門前町でもあった宮宿は、別名熱田宿。白本陣、赤本陣と呼ばれた二軒の本陣をはじめ、脇本陣のほか舟番所も置かれていました。また、宮宿は東海道の脇街道であった佐屋街道、大垣を経由して中山道垂井宿に向かう美濃路が分岐し、しかも七里の渡しもあったことから大いににぎわった宿場でした。
 犬山城主で尾張藩家老だった成瀬氏が寄進した常夜灯がかつての渡し場付近に残っており、当時の宮宿の繁栄ぶりを今にとどめています。
 宮宿から先の東海道は、海の道。伊勢湾を約四時間、七里の渡しの舟で揺られて桑名宿(三重県桑名市)に着き、そこから再び陸路となります。その後、草津宿(滋賀県草津市)で中山道と合流した東海道は、いよいよ終点、京都三条大橋へと向かいます。

熱田神宮の門前町、七里の渡しの宿


七里の渡し・時の鐘(名古屋市熱田区神戸町)
   延宝4年(1676)尾張藩主光友の命により、蔵福寺に時の鐘が設置されました。正確な時刻を知らせるこの鐘は、熱田の住民や東海道を旅する人々にとって重要な役割を果たしていました。昭和20年の戦災で鐘楼は焼失しましたが、昭和58年、市民の声に応えて「宮の渡し公園」内に復元されました。鐘自体は損傷を受けずに、今も蔵福寺に残っています。
丹羽家住宅(名古屋市熱田区)
   丹羽家は幕末の頃、伊勢久と称し、脇本陣格の旅籠屋でした。正面の破風付玄関はかつての格式の高さをしのばせ、西国各藩の名のしるされた提灯箱などが遣っています。昭和59年、市の有形文化財に指定されました。
熱田荘(名古屋市熱田区神戸町)
   宮の渡しのすぐまえの、かつては料亭「魚半」が営まれていた建物です。戦時中に三菱重工業の寮に、その後同社の所有となりました。建造は明治29年と比較的新しいが、近世の町家の様式を継承しており、名古屋市の有形文化財に指定されています。
道標(三叉の道標)(名古屋市熱田区伝馬)
   伝馬町の西端、東海道と美濃路(または佐屋路)との分岐点にある道標。道標の位置は1790年の建立当時のまま。この三叉路の東北隅には、これより32年前に建立された道標がありました。戦災で破損したが復元され、10mほど東の北側に立っています。
都々逸発祥の地碑(名古屋市熱田区神戸町)
   寛政12年(1800)開店した鶏飯屋という茶屋に、お亀とお仲という美声の女子衆がいました。「ドドイツ・ドイドイ」の囃子の潮来節に似た節回しの歌で評判を得たという。「殿々逸節根元集」により発祥の地といわれています。
姥堂・裁断橋址(名古屋市熱田区伝馬)
   姥堂は延文3年(1358)の創建。本尊姥像は熱田神宮から移したものといわれ、「おんぱこさん」と親しまれてきました。第二次大戦で、焼失したが平成5年に復元。今は埋め立てられている精進川に架かっていた裁断橋は、秀吉の小田原征伐の際、息子を亡くした母が供養のために修造したものです。橋の擬宝珠(ぎぼしゅ)に刻まれていた母の銘文の拓本が、姥堂におかれています。