展示室風景
展示室風景

愛知県公文書館では、公文書館制度の普及と所蔵資料の利用促進を図るために、常設展のほか、毎年企画展を開催しています。

昨年2005年は、中部国際空港セントレアの開港、愛・地球博の開催など愛知県が世界への扉を大きく開いた一年でした。また、伊勢湾岸自動車道や東海環状自動車道の整備など、この地域と他をつなぐ交通路が広がっています。名古屋港開港100周年を明年に控え、蒲郡港開港からは40周年と、節目の時期を迎えていることから、愛知の港をテーマに取り上げました。

この展示を通じて、愛知県の歴史に興味を持ち、本館所蔵資料への理解を深めていただければ幸いです。

○期間
平成18年10月2日(月)から11月30日(木)まで
土曜日、日曜日及び祝日は休館します。
○開館時間
午前9時から午後5時まで
○場所
愛知県公文書館 展示室(愛知県自治センター7階)
○展示内容
公文書や古文書、絵図、写真、刊行物など
○入場料
無料
○展示の概要
江戸時代から昭和初期までの愛知の港について、公文書や古文書、絵図、写真や刊行物などで紹介します。館蔵資料のほか、他機関や個人の方から貴重な資料も借用して展示します。

港位置図(御覧になりたい港をクリックしてください。解説へ移動します。) 港位置図

(注)江戸時代以前には「港」ではなく「湊」という字を使っていました。これに従い、近世については「湊」と表記します。

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1 近世の湊

伊勢湾、三河湾を擁する愛知県にはいくつもの湊が存在します。古くは奈良時代まで遡り、古代においてもこれらの湊が重要な意味合いを持っていたことがわかっています。江戸時代に入ると、海上交通が活発になり、湊の需要はますます高まっていきました。いくつかの湊もこの時期に形成されています。

熱田湊

尾張名所図会 前編四 愛知郡 「熱田の浜 夕上り魚市」
尾張名所図会 前編四 愛知郡
「熱田の浜 夕上り魚市」

現在の名古屋港の前身である熱田湊は、熱田神宮の門前町である熱田宿(東海道五十三次の第41宿目)にありました。熱田宿と桑名宿間の海上航路は「七里の渡し」と呼ばれています。

また、熱田湊は伊勢湾内各地の産物が集積するところとしても賑わっていました。熱田の魚市場には尾張近海だけでなく、伊勢・志摩・遠江を始め遠く房総地方からも海産物が送られて来るなど、船の出入りが盛んでした。

半田湊

舟運が盛んな知多郡には、大野・常滑(とこなめ)・野間・内海(うつみ)・半田・亀崎など多くの湊がありました。中でも知多郡最大の村であった半田村は、海運業が発達し賑わいを見せていました。

半田では酒・酢・焼酎などの醸造業が盛んであったことが知られています。米などの原材料や道具を作る木材などの調達、製品を主な市場である江戸への輸送など、醸造は海運と密接な関係がありました。

三州五箇所湊

三河湾に臨む三河国には、江戸時代にいくつかの湊がありました。その中で「五箇所湊」又は「五箇湊」と呼ばれる海上交通上重要な役割を果たした湊がありました。碧海(へきかい)郡の大浜・鷲塚、幡豆(はず)郡の平坂(へいさか)、宝飯(ほい)郡の犬飼・御馬(おんま)の5港です。

大浜湊は5港のうち最大規模を誇り、醸造業を中心とした廻船が活躍しました。また、三河では御馬湊と鷲塚湊だけが御城米船の指定港とされていました。

吉田湊

東海道の宿場町であった吉田宿は、湊町としてもよく知られていました。吉田川(現在の豊川)の左岸、河口に近い東海道吉田大橋のたもとに位置したのが吉田湊です。

江戸時代、吉田湊は三河最大の湊であり、伊勢参りの旅人が船で伊勢国の川崎や大湊へ渡る参宮船で賑わいました。また、三河湾・伊勢湾の廻船の発着地であり、川舟と廻船との荷物積替えの地としての機能も果たしていました。

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2 名古屋港築港

維新後、産業の発達とともに貨物の集散量が増大する都市部にあっては、港湾は大量輸送手段として欠かせないものとなってきました。熱田湊は古くから東海道随一の湊町・宿場町として知られてきましたが、遠浅の海が形成されており大型の船舶は入港できませんでした。このため明治になってからは、三重県の四日市港に東西の貨物中継の要港としての地位を譲ってきました。

明治10年ごろ、ようやく地元の人々の間で熱田湾の未整備が名古屋発展の妨げとなっていることが認められ、近代的港湾築造を求める機運が生まれてきました。しかし、明治16年国貞廉平(くにさだれんぺい)県令によって熱田築港建議が政府に上申されましたが、地形的条件などから政府も動かず、およそ10年の月日がたちました。

「三部制ニ関スル調 昭和十一年七月」
「三部制ニ関スル調 昭和十一年七月」

明治25年に着任した時任為基(ときとうためもと)知事は築港立案に乗り出し、29年度から35年度までの築港事業施行が確定しました。この第1期工事はさらに天災や財源問題などの事情で工期が延期されていきました。

また、築港に反対する意見も根強くありましたが、これは名古屋市部と郡部との利害不一致が一因とも言われています。当時愛知県では三部制(三部経済制)といって、財政を市部と郡部、及び郡市共通の連帯とに区分して運営し、県会は市部会と郡部会と県会(連帯会)の三者に分かれて審議する制度をとっていました。明治40年に築港費が郡市連帯から直接利害のある市部経済へと移り、愛知郡熱田町が名古屋市へと編入されることで県会における反対論は影をひそめました。

一方、奥田技師らは築港機運を盛り上げ、事業の重要性と築港効果の多大なことを示すため、明治39年には「ろせった丸」の入港を実現させました。これを目の当たりにした人々は近代的港湾というものを初めて認識しました。

「記念絵葉書 巡航博覧会(ろせった丸)」
「記念絵葉書 巡航博覧会(ろせった丸)」

第1期工事は明治43年度に完成を見ましたが、竣工前の明治40年、それまで熱田湾又は熱田港と呼ばれていた港は「名古屋港」と名を変え、11月10日に「開港場」に指定され、愛知県では武豊港についで2番目の国際貿易港になりました。

産業の発展につれてその後の港勢の伸張にはめざましいもがあり、昭和15年度完成の第4期工事まで順調に行われました。さらに続けて第5期工事が着工されましたが、太平洋戦争のため一部が施工されたのみでした。

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3 知多半島の港

知多半島の西側には、最北に横須賀(よこすか)港がありましたが、のちに名古屋港の港域に入りました。その南には常滑・冨具崎(ふぐさき)・内海・豊浜(とよはま)などの中小の港が点在しています。半島南端に近い豊浜港は、現在県下一の水揚げを誇る漁港となっています。

半島の南端の師崎(もろざき)港から東側を北にたどると河和(こうわ)などの港、衣ヶ浦(ころもがうら)湾に至ると武豊(たけとよ)港があります。その北の半田・亀崎及び対岸の大浜・新川・平坂の各港は大正11年に武豊港の港域に編入されました。

また、師崎沖には篠島(しのじま)・日間賀島(ひまかじま)・佐久島(さくしま)が浮かびそれぞれに港があります。

武豊港

今は衣浦(きぬうら)港に統合されている武豊港は、古くから天然の良港で大型船舶の碇泊にも適していたため、早くから定期航路の寄港地として名が知られるようになりました。明治18年、政府は武豊港から名古屋へ通じる鉄道敷設工事に着手し、翌年3月には熱田停車場まで開通しました。この後武豊村では県道の改修事業や軍隊の大演習、明治天皇皇后行幸啓などが続き、武豊港の存在に注目が集りました。当時の知事は武豊港を陸揚げ基地とし名古屋の外港として開発する構想を持っていたといわれます。

このような動きの中、武豊港を特別輸出港(開港場)とする運動がおき、明治24年には県会でも特別輸出港建議が決議されました。県会では明治16年、既に熱田湾築港建議が可決されていましたが、この頃は熱田よりも武豊が重視されていました。

武豊港は明治32年に開港し、このときの勅令によって定められた武豊港の港域は衣ヶ浦沿岸一帯が含まれました。

衣浦港

昭和32年衣ヶ浦湾内の武豊・半田・亀崎・刈谷・高浜・新川・平坂・大浜の8港が統合し「衣浦港」として重要港湾に指定されました。以後、港湾整備とともに土地の造成、工場の建設といった計画のもと、衣浦臨海工業地帯の建設が進められてきました。

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4 三河の港

衣ヶ浦湾の東岸には大浜港があり、知多半島との間には明治初めから渡船が運行し、また亀崎・福江間の定期船も寄港していました。大浜港は大正11年に半田港など4港とともに武豊港に編入されました。衣ヶ浦東岸には他に刈谷・高浜・寺津港などの小港があります。

幡豆郡の海岸を東に進むと、一色(いっしき)・吉田港などがあり、渥美湾に突き出た西浦半島の東に倉舞(くらまい)、西に西浦・蒲郡(がまごおり)港があります。そして渥美湾の最奥では豊橋港を中心に北西に前芝港、南部に牟呂(むろ)・大崎港があり、これらはかつて吉田湊として栄えた豊川河港とともに統合されて、昭和11年豊橋港となりました。

渥美半島には、渥美湾内に田原・馬草(まぐさ)・福江港などがありますが、伊良湖岬を回って外海に面した海岸線は直線的で大きな港は発達していません。

蒲郡港

蒲郡港は、寛永12年(1635)に犬飼湊として開かれたもので、江戸時代には吉田藩の年貢米の搬出港として栄えました。明治期には新川港・高浜港・紀州新宮(しんぐう)港などとの間で木材や石材の輸送に使われていました。

明治21年に鉄道が開通し、蒲郡駅が開設されました。そして陸路と海路をつなげるべく明治35年駅舎の南の海岸の埋め立てが行われました。港湾整備は大正8年から行われ、近代蒲郡港が誕生し昭和5年には指定港湾となりました。

その後、昭和37年蒲郡港は西浦・豊橋・田原の各港とともに統合され三河港の1つとなりました。昭和41年、三河港のうち蒲郡港だけが開港場に指定され国際貿易港の仲間入りを果たしました。今年平成18年は開港40周年にあたります。

三河港

公有水面埋立関係(福江町)
公有水面埋立関係(福江町)
昭和九年(一九三四)

三河港は、西浦・蒲郡・豊橋・田原の4港を統合したもので、地方港湾「三河港」としての港域は昭和37年に指定されました。昭和39年には重要港湾に昇格し、東三河地域が政府から工業整備特別地域の指定を受け、三河港は生産・流通の拠点港として整備が進められることになりました。

現在の三河港は、国内大手自動車メーカー3社が輸出拠点としており、また海外の自動車メーカーも進出して輸入自動車の台数・金額とも全国第1位となっていて、輸出・輸入ともに全国有数の自動車流通港湾となっています。

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吉田初三郎の鳥瞰図

吉田初三郎は、明治17年京都に生まれ、大正から昭和始めにかけて活躍し「大正の広重」と呼ばれた商業画家です。空の高いところから見下ろしたように広い範囲をデフォルメして描いた特徴ある鳥瞰図作品を数多く作成しました。初三郎の描く都市の鳥瞰図は、山々を背にした町並みを海の上空から眺める構図が多く、港湾の様子を克明に描いたものが多くあります。それらは、都市や観光地をPRするパンフレットなどとして刊行されました。また、一時期アトリエが愛知県の犬山にあったことなどから、県内を描いたものも少なくありません。

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ちらし(PDF251KB)

現在の愛知県の港湾などについて詳しく知りたい方は愛知県港湾課のページ

熱田湊 名古屋港 武豊港 半田湊 五箇所湊 五箇所湊 衣浦港 蒲郡港 三河港 吉田湊 港位置図