
東海道に面した主屋
■指定理由
服部家は、寛政2年(1790)創業の絞問屋で、井桁屋を屋号とする。屋敷地は、東海道に面して広い間口を有し、中央部に二階建の主屋を配し、井戸屋形、土蔵、門など合わせて11棟が指定文化財となっている。 有松の有力な絞問屋の屋敷構の典型として価値のある遺構となっている。
■詳細解説

書院

東蔵(旧米蔵)

土間小屋組

背面の土蔵群
名古屋市の有松町並み保存地区のほぼ中央にある服部孫兵衛家は、東海道をはさんで向側にあった大井桁屋、服部家から分家して寛政2年(1790)に創業した絞問屋で、屋号は井桁屋である。江戸時代は出身地である東浦町などに多くの田畑も所有していた。東海道に面した北側の東西に長い屋敷地の中央に二階建の主屋を中心に多くの建物が建ち並び、主屋や座敷からなる店舗並居住部、井戸屋形、土蔵計6棟、門並門長屋計2棟が指定文化財となっている。敷地背面は一段下がって藍染川(手越川)が流れ、藍染川の北、名鉄名古屋本線を超えて北の丘陵地までがかつての屋敷地であり、丘の麓は布のさらし場で南斜面の中腹には屋敷地を眺める御亭(茶屋)があったという。
主屋は、切妻造(きりづまづくり)、二階建、桟瓦葺、一階には格子をはめ、二階は黒漆喰(くろしっくい)の塗籠造(ぬりごめづくり)で屋根両妻に卯建(うだつ)をあげる。幕末、明治の尾張地方の町家建築の典型的な構成といえる。東側を土間とする2列4室の片土間形式の平面で、西側に平屋で取り付く八畳は西ミセと呼び、ふだんの商いはここで行われていたという。様式から江戸末期の建造とみられる当初の構成を基本的に踏襲しているが改造も認められ、現状は明治中期頃に整備されたものと考えられている。
主屋の西は街道沿いに塀を構え門を開く。門正面に座敷の玄関を構え、玄関西側北には入側、次の間十畳、書院十畳からなる座敷が建つ。明治30年(1877)頃、久田流の茶匠であった西行庵の指導のもと建造されたもので、欄間(らんま)や床の間などに趣向を凝らす端正な数寄屋風書院(すきやふうしょいん)である。この他、玄関背面に三畳半、西北米蔵の西に一畳台目の茶室がある。
主屋の東、通りに平行に店倉、その東には妻側をみせて服部幸平家の土蔵、中庭東側に東蔵(旧米蔵)が建つ。敷地背面には、東から旧米蔵、旧味噌蔵、女中部屋、長屋門、裏座敷、旧藍倉、旧米蔵が連続して建っている。東南隅の旧米蔵は、繊維業を営んでいた時代に背面に開口を設けている。これらの土蔵は、白漆喰の塗籠造で、中庭側の腰は海鼠壁(なまこかべ)(平板瓦を張って繋ぎ目をしっくいで盛り上げた仕上げ)、外側は下見板張とする。旧藍倉、旧米蔵は、敷地段差を利用した三階建となっていて、開口部に格子を入れた北側外観は城郭の櫓を思わせる。主屋背面には井戸屋形があり、西ミセ背後に方位を振って六畳間が取り付き、その背面には二階建の宝蔵倉が建つ。宝蔵倉は、他の倉よりは一段棟が高い土蔵で主屋と同じ黒漆喰仕上げである。
絞りの販売は、近世は尾張藩の許可制であり、そのような特権を背景として資本を蓄積した絞り問屋は、近代の盛業によってさらに発展した。有松の有力な絞り問屋の屋敷構えを建築的に特徴づけるものは、間口の大きな敷地の中に、絞りの原材料製品のための蔵、接客用の座敷などが建ち並ぶ構成といえるが、服部孫兵衛家はその典型といえ、よく保存された屋敷構え全体が価値あるものとなっている。(溝口正人)