
正面
■指定理由
妙源寺は、安藤氏が河内国安部野から三河国桑子に移住したとき、聖徳太子の木像を安置するため一堂を建立したことにはじまると伝えられる。
柳堂は、桁行3間、梁間3間、寄棟造で、屋根を檜皮葺とし、前面に一間の向拝を付ける。棟札には、正和3年(1314)の再建とあり、様式的にも矛盾しない。
堂内に安置される厨子(ずし)は、一間、入母屋造で、屋根は本瓦型の板葺とし、太子像を祀る。
■詳細解説

側面
妙源寺は、三河の浄土真宗のもっとも古い道場の一つである。文暦2年(1235)親鸞上人が関東から京都に戻る際、桑子城主安藤薩摩守信平が城内に招いて説法を受けて帰依し、正嘉2年(1258)に一宇を建立し、明眼寺と称して開基になったとされる。以後は安祥城主松平長親、松平清康、徳川家康などの庇護を受けて寺運を保った。境内に残る太子堂は別名を柳堂と称し、棟札によれば正和3年(1314)の建立である。柳堂は、桁行3間、梁間3間、寄棟造、檜皮葺、一間向拝付の堂である。堂周囲は、亀腹上に丸柱を立て、縁長押、内法長押、頭貫を巡らし、組物は平三斗(ひらみつど)とし、堂正面の中央柱間では、双折桟唐戸を吊り、この両脇柱間ならびに両側面の前二間には蔀戸(しとみど)を吊り、背面の中央柱間にも双折桟唐戸を吊り、その他を板壁としている。堂内はひとつの空間とされる。中央後方では側柱筋のやや後方に来迎柱を立て、柱上に実肘木付の三斗を載せ、天井は棹縁天井を一面に張っている。来迎柱間では飛貫、頭貫を通して来迎壁を設け、前方に禅宗様須弥壇(ぜんしゅうようしゅみだん)を出し、宮殿を安置して太子像を安置している。この仏堂は、組物を平三斗とし、柱間に蔀戸(しとみど)を吊り、天井を低く張るなど邸宅風な意匠を取り入れており、一間四面の仏堂の系譜に属するものと見られる。また、浄土真宗の初期の寺院では門徒の集まる道場が建てられたが、阿弥陀如来や聖徳太子を祀る御堂としてはささやかな仏堂が建てられたとみられ、柳堂はそうした数少ない貴重な遺構の一つといえよう。(杉野 丞)