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コラム

窯場今昔100選  仲野泰裕

(6) 犬山焼

  • 赤絵魚藻文大皿
  愛知県犬山市で焼かれた陶磁器の総称。江戸時代には今井窯(丹羽郡今井村)と丸山窯(犬山城下)が知られ、丸山窯においては尾張地方において唯一、本格的な色絵陶磁器が焼かれている。今井窯は、宝暦年間(1751-64)から安永(1772-81)末年まで操業したとされ、灰釉や飴釉などを中心に碗・小皿・徳利・片口鉢・擂鉢・香炉などが焼かれており、美濃窯系の技術系譜を強く示している。

 しばらくの中断ののち、犬山上本町に住む島屋宗九郎が、文化七年(1810)に城下東郊の丸山新田(現・犬山市)に丸山窯を開いた。その後、同一四年には綿屋太兵衛に引き継がれ、文政九年(1826)には瀬戸系技術の導入により磁器生産が開始されているが、一時衰退している。しかし尾張藩付家老成瀬家(犬山城主)の援助や、志段味(しだみ/現・名古屋市守山区)から松原惣兵衛を招くなどして復興し、天保(1830-44)初年ごろには赤絵が始められている。絵師道平が招かれており、呉州手(赤絵・染付)や乾山風の雲錦手などが盛んに焼かれた。前者には良質の磁器素地、陶胎白化粧・陶胎素地が、後者には陶胎素地が用いられている。

 また焼かれた製品の大多数を、大小の皿類・鉢類が占めているが、茶碗・水指・香炉・茶巾筒などの茶器も僅かに認められる。犬山は尾張藩付家老の所領であったことから、藩内においても半ば独立的性格の強い地域であった。このため藩内において、瀬戸以外の地域で本格的な陶磁器を生産することが、例外的にできたものと考えられる。

 丸山窯は発掘調査されており、2基の本焼窯と絵付窯、素焼窯などの一部が検出されているが、遺存状況が悪く不明な点も多い。天保年間後半が最盛期とされるが、幕末から明治初年頃には経営が苦しくなっている。製瓦業から製陶業に転じた尾関作十郎などの援助を受けたものの明治六年(1873)に廃窯となった。

 銘は「犬山」の印銘の他、「乾山」などの書き銘が知られる。犬山焼は曲折の後、二代、三代作十郎らの尽力により復興されており、現在は尾関窯の他、大沢窯、後藤窯などが知られる。


(平成18年 『釉人』第68号掲載)

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