窯場今昔100選  仲野泰裕

(15) 讃窯(さんかま)

四国地方にも多くの近世の窯が知られているが、京焼の直接的な影響を受けるなど、異彩を放っているのが讃窯(香川県大内町)である。

高松藩第九代藩主松平頼恕侯は、天保三年(1832)国産品奨励の名目で、仁阿弥道八を招いてやきものを作ることを、東讃三本松村の堤治兵衛(十代)に命じた。治兵衛は、京都五条坂において道八と交渉し、同年4月上旬には、仁阿弥道八が息子道三、弟子與兵衛、十兵衛と共に讃岐を訪れ、堤家の所有地である三本松村五輪に築窯した。地元富田村の陶土の他、各地の良土を集めて焼成しており、翌天保四月正月に藩主へ献上している。この際、藩主は「讃窯」の銘印を下賜するなど、保護奨励している。

さらに二十年の後嘉四(1851)年三月、十代藩主頼胤侯が開窯を命じたが、当時大病を患っていた十一代治兵衛に代わって庄屋高畑作兵衛が、道八一行の実質的な世話をすることになった。『讃窯記』によれば、本焼窯(南北三十尺・三房の連房式登窯)、素焼窯、陶土場、手工場などのあったことが知られる。窯後推定地は、JR高徳線三本松駅近くにある他、道八が用いたと伝えられる内窯(総高37㎝、口径31㎝)が、蒲田共済会郷土資料館(香川県坂出市本町)に収蔵されているが、身と蓋の径が異なり、異個体であったと考えられる。

讃窯には、道八らによって江戸後期の復興期にあった、新しい京焼風意匠がそのまま導入されており、仁清、乾山(写真1:蓋物)のものや、中国や安南風(写真2:茶釜)の陶器など幅広い作域にわたっている。また十代治兵衛は、道八の指導を受けて、種々の作品(写真3:手桶水指)を残しており「酔茗亭」などの銘がある。



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