窯場今昔100選  仲野泰裕

(17) 南紀男山焼(なんきおとこやまやき)

南紀男山焼は、和歌山県有田郡広川町上中野の男山南麓に位置する。文政10年(1827)、和歌山藩の保護を受けて崎山利兵衛(1798-1875)が主に染付磁器を焼いた。

『紀伊国名所図会』(嘉永4年.1851)によれば、「男山陶器場」として、約5000坪の敷地に本カマ(14室の焼成室をもつ連房式登窯)を中心に、素焼窯、細工場、土納屋、土漉し場などを備えた量産可能な設備が認められ、藩内で唯一の本格的な窯場であった。

陶石は、窯場の西北の庚申山から豊富に産出しており、初期には、欽古堂亀祐の指導を得た他、肥前有田の熟練陶工を招いたとされる。東西の流通ルートを握り、江戸表で肥前有田焼を売り捌いていた、有田郡箕島の陶器商人が廻船を利用してそれにかわるものとして、製造直売を試みたもので、藩の御蔵物として藩内はもとより藩外にも売り捌かれた。

しかし経営は必ずしも順調とは言えず、別邸西浜御殿に偕楽園窯を開いた十代藩主徳川治宝候の没後は、藩財政の負担軽減のため、安政3年(1856)ころに、施設が払い下げられ民営となっている。

その後、断続的に経営形態が変り明治11年まで創業している。

窯跡からは、「南紀男山」の他に「偕楽園製」「三楽園製」などの銘のある陶片が採取されており、これらの窯の素地を焼いていたことを示している。



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