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窯場今昔100選  仲野泰裕

(20) 不二見焼 (ふじみやき)

 不二見焼の初代村瀬八郎右衛門(美香、不二山人)は、大田代官、明倫堂(藩校)主事などを歴任した尾張藩士(百三十石)であり、篆刻、茶道、詩歌、俳諧など多種多芸であった。そして屋敷に隣接して陶工慶助(慶楽焼)の窯があったことや、尾張藩士市江鳳造の娘しげと結婚したこともあり、陶法は鳳造に学び、嘉永五年(1852)ころから、好みのやきもの造りを楽しんでいた。
 美香は、維新の後、息子亮吉に陶磁器の振興を図るべきだと幾度となく説いたが、全く経験・知識のない亮吉は躊躇していた。
 しかし他家からの説得もあり、明治12年(1879)3月28日に、上前津の別邸(風月双清村舎)の庭に窯を築き、瀬戸から招いた技術者4人と父子併せた6人で製陶業を開始した。

 当地は富士見原と呼ばれ、現在の大池町から鶴舞公園方面越しに富士山が遠望できるという、風光明媚な場所であった。また北斎の富岳三十六景の内「尾州不二見原」でも知られる。不二見焼初期の陶土は、前津土と呼ばれるもので、大池(鞠ヶ池、前の名古屋商工会議所のあった地区)から産出することからこの窯場の撰地でもあった。茶器、食器の他磁器製品も手掛けたが、典型的な武家の商法で、販売実績が伸びず苦しい状況が続いている。

 しかし亮吉が、実務全般を切り盛りして、なんとか同20年代には事業として軌道に乗るようになったとされる。この頃の様子は、『愛知縣下商工便覧』(明治21年・1888)に「富士見焼窯元 村瀬亮吉」と題して窯場風景図付で紹介されている。それには、邸内に築かれた3本の高い煙突を伴う窯場と商品陳列所が描かれている。

 また、美香の趣味のやきものからこの頃までの作品の一部が、ボストン美術館のモースコレクションの中に茶碗、水指、花器など17点が認められるほか、モントリオール美術館のクレマンソーコレクションにも含まれている。
 不二見焼は、この後、日本を代表するタイルメーカーとして発展するが、茶陶の制作は不二山人の名で初代美香、二代亮吉、三代熊彦(美香の三男)、四代四郎(亮吉の次男)、五代安藤昇(1920-97)氏は、当友の会会員(昭和63年から理事)としても活躍されており、『釉人17号・平成元年』に、技法を残したい上に「編上手」に限り5世を襲名した、と控えめに記述され、バザールに菓子器と蓋置きを寄付されている。
 タイルメーカーとしての活躍については、拙稿「村瀬亮吉 不二見焼と硬質陶器タイル」『近代陶磁3』(近代国際陶磁研究会、2002)を参照いただけると幸いである。
(平成22年 『釉人』第82号掲載)
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