食器よもやま話  著:神崎かず子

(3) 膳と瀬戸天目

◆前回のおさらい

先回は鎌倉時代の「オオ飯(椀飯)」と「精進料理」の食習慣および食器についてご紹介しました。質素倹約を旨とした鎌倉時代の飲食儀礼「オオ飯」は武家の主従関係を強化するための儀式であり、飯を盛った椀を中心に副食物を添え、盃酒を加えて供されました。「精進料理」は肉食禁忌の観念が広まったもので、禅宗とともに高度な調理技術がもたらされたことから、日本料理に大きな影響を及ぼし、次第に定着していきました。この時代の武家儀礼や寺院における食器の主流は、漆器類であったといえるでしょう。

◆室町時代と膳

室町時代は「オオ飯」が進化し、「本膳(ほんぜん)」とよばれる供応料理となりました。これは家臣が将軍などを自宅に招いて催す「御成(おなり)」で供されたもので、式三献(固めの盃・契りの盃など)にはじまり、本膳・追膳・三膳などの料理と酒が振舞われました。

「御成」とは、贈答(馬、刀剣、衣類など)の儀式や、能・茶の湯・立花の観賞などが行われた武家の公式行事の宴であり、その場で振舞われた料理は、魚鳥中心の料理に精進料理の技術が取り入れられたものでした。ちなみに、この「本膳」をもって現在の日本料理の大系がほぼ完成したと考えられています。

同時代の絵画資料は前回紹介した『慕帰絵詞』(観応2:1351年)以外にも数例あり、ここには懸盤(かけばん)・脚付膳・折敷(おしき)などに、朱か黒漆の飯椀・盃・青磁らしき皿・あるいは木地物か土器(かわらけ)や須恵器を思わせる白生地の椀皿類などが描かれています。食器の内訳は鎌倉時代と大きな変化があったようには見受けられませんが、料理は膳に乗せて客前に置かれますので、献立が多くなると膳が増えていくことから、「膳」は象徴的な器であったと考えられます。

◆喫茶碗は天目

またこの時代には、人が会して行う連歌や生け花などの寄合の芸能や、茶の産地を飲み当てる飲茶勝負(賭け事)、淋汗(りんかん)の茶の湯(入浴後に酒宴と喫茶を楽しむ)などが流行し、それぞれ料理と飲酒を伴う宴会が行われました。私邸の饗宴でも十献あるいは二十献、「百味珍膳」や山海の珍味などといった饗応の記録があり、バサラの精神(※註)あふれる献立が残されています。

この様子は14世紀中頃成立の『太平記』や『喫茶往来』などからうかがい知ることができますが、ここではこのような場で使用された喫茶碗が天目であることに注目しておきたいと思います。そして、こうした宴会では当時から貴重とされていた唐物天目ではなく、すでに生産されていた瀬戸天目が用いられていたと考えられます。

※註 身分秩序を無視して時の権力に反発し、豪奢な振る舞いや粋で華美な装いを好む美意識。



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