吉田宿・宿場手控え
宿番号 34番
区間距離 1里20町00間
逓加距離 72里34町25間
総人口 5,277人
総家数 1,293軒
本陣 2軒
脇本陣 1軒
旅籠屋 65軒
 吉田宿(豊橋市)は飯田や信州に向かう別所街道が分岐した東海道の宿場町として、また城下町、さらには豊川(吉田川)の港町として大いに栄えていました。
 本陣が二ヵ所もあり大いに繁栄していた吉田宿の中心は札木町で脇本陣のほか旅籠が集中していました。現在もこの付近は豊橋市の核として繁栄しています。元禄のころにはすでに全国に知られ、現在でも盛大に行なわれる吉田の祇園祭りの花火に、賑わいを見せた吉田宿のころを想像することができるようです。
 吉田城は、永正二年(1505)に牧野氏が今橋城として築いたことに始まり、天正18年(1590)に池田輝政が本丸、二の丸、三の丸といった近世城郭の築城を進めたといわれます。江戸時代には、竹谷・松平氏、深溝・松平氏など10数氏に及ぶ譜代や親藩の大名たちが繰り返し移封してきました。
 この吉田城は江戸時代初期にも改築が行なわれていますが、今に残る石垣の刻印から、その石材は名古屋城のために用意された石を転用したといわれています。
 東海道はその吉田城を南に迂回するように幾つも折れ曲がり吉田宿の町を通り、豊川を渡り吉田宿を離れます。
 当時この川には、幕府が整備、管理する長さ120間という有名な吉田大橋が架けられていました。幕府の政策によって街道の大きな川には橋を架けられなかったので、東海道沿線の大きな川に架かる橋は、六郷川の六郷橋(東京都と神奈川県の境・江戸時代中期には渡しに変更)、岡崎の矢作川に架かる矢作橋、そしてあまりにも有名な瀬田の唐橋(滋賀県)、そしてこの吉田大橋しかありませんでした。

城下町の風情のこる宿


吉田城址 (豊橋駅から市電 市役所前下車400m)
 

永正2年(1505)今川氏の被官であった一色城(豊川市牛久保町)城主の牧野古白によって構築され、今橋城と呼ばれていました。以来、東三河の要衝であった今橋城は、今川、武田、松平(徳川)ら戦国武将の激しい攻防を経て、吉田城と改称されました。
永禄8年(1565)、徳川家康は今川氏の東三河における最大拠点であった吉田城を攻略し、ここに酒井忠次を置きました。 天正18年(1590)豊臣秀吉により家康が関東移封となってから、池田輝政が入城し、15万2000石の城地にふさわしい拡張と城下町の整備が行われましたが、未完成のまま明治に至りました。
現在は豊橋公園として整備され、昭和29年に復元された隅櫓をはじめ、美術博物館やスポーツ施設などがあり、市民の憩いの場となっています。
瓜郷遺跡 (豊橋駅からJR飯田線 下地駅下車800m)
  この遺跡は、弥生時代に属する土器、石器、骨角器、木製の農具などが出土しており、農耕のほかに、漁撈、狩猟の生活が行われていたことを示しています。奈良県の唐古遺跡、静岡県の登呂遺跡とともに、低地弥生遺跡の一つとして有名です。
出土品は豊橋市美術博物館に収蔵、展示されています。
とよばし記念碑(豊橋駅から徒歩1100m)
 
とよばし(橋梁名)は東海道の幕府直轄の五大橋といわれました。元亀元年(1570)の架橋では土橋でした。天保14年(1843)の「宿村大概帳」には「板橋高欄付長96間、横4間」とあります。現在のとよばしの下流、現地付近に記念碑があります。
鬼まつり (豊橋駅から市電 体育館前下車100m)
 
国の重要無形民俗文化財に指定されている天下の奇祭で、平安朝から足利時代にかけて行われた田楽の一種が今日まで継承されたものです。暴ぶる神(赤鬼)と武神(天狗)の戦いは寒中勇壮な神事であり、暴ぶる神の退散により一同が平和を喜んで舞う神楽は有名です。
安久美神戸神明社において、2月10・11日に行われます。
御衣(おんぞ)まつり (豊橋駅から徒歩1000m)
  神官の祭儀で最も重要視されている衣食住。その中で「衣」の祭が御衣祭と呼ばれています。奥三河の赤引きの糸で織りあげられた絹織物=御衣を、田町(現在の湊町)神明社に運びこみ、祭典の後で船積みして伊勢神宮へ奉納されます。
元和年間(1615〜24)に始まり、吉田城下最大の祭でした。
湊町神明社において、5月14・15日に行われます。
湊町神明社 (豊橋駅から徒歩1000m)
  境内の旅寝塚には芭蕉の句碑があります。
「越人と吉田の駅にて寒けれど二人旅寝そたのもしき」と刻まれています。
豊橋祗園まつり (豊橋駅から市電 市役所前下車400m)
 
祗園まつりは、この地方特有の手筒花火や打ち上げ花火の他に、今川義元が寄進したといわれる神輿渡御、笹踊、頼朝・乳母の行列などが行われ、市の三大祭の一つです。
吉田神社において、7月中旬に行われます。
聖眼寺 (豊橋駅からバス〔豊川駅行〕5分 元下地下車500m)
  境内の松葉塚には、新旧二つの芭蕉の句碑があります。古い句碑には「松葉を焚て手ぬぐひあふる寒さ哉」、新しい句碑には「ごを焼て手拭あぶる寒さ哉」と刻まれています。