
外観
■指定理由
観音寺は、奈良時代の創建と伝えられ、現在は天台宗に属する。尾張四観音の一つで、荒子観音寺の名で親しまれている。
多宝塔は、三間四方で、内部に本尊である釈迦、多宝の二仏を祀り、長押上と来迎壁には彩色が施され、天井には蓮花が描かれている。屋根は宝形造でこけら葺とする。
■詳細解説
観音寺は天台宗に属し、奈良時代の創建と伝える。尾張四観音の一つで、荒子観音寺ともいう。この塔の建立年代は、嘉永3年(1850)の修理で取り替えられた心柱墨書や寺蔵の『浄海雑記一』の水盤内記によると天文5年(1536)の再建であると考えられる。寺には多数の円空仏が保存されている。
この塔は、三間多宝塔(一辺3.6m)、高さ13.58mである。上層は円形平面で白色板張の亀腹(かめばら)をつけ、宝形造・こけら葺の屋根をのせ、下層は裳階(もこし)をつけて方形平面とし、周囲に縁をめぐらす。上層では、禅宗様4手先の組物を用い、垂木を放射状に配する扇垂木とする。下層では、柱は角柱で、組物は出組、中備に蟇股(かえるまた)、間斗束(けんとづか)を用いる。内部には、本尊の釈迦・多宝2仏を祀り、長押上と来迎壁(らいごうかべ)には彩色が施され、天井には蓮花の絵様が描かれている。ところで、前述の心柱墨書には熱田宮棟梁甚四郎吉定の名がみえる。岡部家一族は熱田神宮の工匠で「室町幕府御大工池上五郎衛門」に仕えて禁裏や室町御所などにも携わった名工であり、三河の大恩寺念仏堂(焼失)、三明寺本堂内厨子などを造営しており、尾張・三河地方で広く活躍している。(沢田多喜二)