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窯場今昔100選  仲野泰裕

(14) 因久山焼

  • 水指
 日本海沿岸の山陰地方には、山口県の萩焼をはじめとする近世の窯業地が知られている。その一つに、鳥取市の南、八頭町(旧郡家町)久能寺において、古くからのやきもの造りが知られており、一般に因久山焼と呼ばれている。一方、『因幡誌』(1795)などには、久能寺焼とあり、当地の名産とされるが詳細は不明である。

 因久山焼の始まりは、明和年間(1764-72)に鳥取藩主池田侯が、京都から六兵衛を招聘して開窯したとされ、六兵衛に尾崎家初代治良右衛門と芹沢家二代亀五郎が師事しており、数々の陶技を伝授された。寛政7年(1795)には、御国産として保護を受けたほか、藩外から陶工が招かれるなど、品質、産額共に向上している。
 さらに享和・文化(1801-18)頃には、信楽の陶工勘蔵が新たな陶法をもたらし、息子勘助とともに名品を残すなど、現在知られる因久山焼の基礎がこの頃確立したとされる。

 また芹沢家は、藩主池田侯の御用を務めたことなどから、「因久山」(因幡国久能寺)の窯名を賜り、他家も含めて「因久山」と押印するようになった。また、文化二・三年(1805・06)頃には、藩主斉邦侯が久能寺を訪れて製陶を直接督励している。その後、嘉永五年(1852)には、粟田焼に発注していた御紋付き茶碗など、城内や江戸屋敷で使用する御用品を久能寺で焼かせるなど、保護・督励した。

 これにより、尾崎家は瓢形枠に「因久山」印、芹沢家は角輪印に「因久山」印、勘蔵家は「因久山」「勘」印、そして文政(1818-30)初年から加わった山本家含めた四家が因久山焼の隆盛を高めている。

 伝世する作品の多くは茶陶であり、藁灰釉、緑釉、白釉、黒釉などを単調に流しかけた例が多いl。  また捻り物にも優品は知られるが、写真の水指のように細やかな細工の作品は少ない。

 現在は、江戸時代から続く七室の連房式登窯を焼き継ぐ、芹澤家が窯元として知られる。 [作品解説] 松と竹がテーマとなっており、竹で編んだ籠に松葉が詰め込まれた状態が表現され、両耳と蓋の紐は硬くしまった松毬をかたどっている。底部には、「因久山」「勘」の印銘が認められる。 なお、「勘」印は、数種類知られているが、父子の作品の区分は明確ではない。
(平成21年 『釉人』第76号掲載)
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