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メンバーの声

 常設企画の第一は、本院で緩和ケアを受けられた患者さんたちの入院体験、近況報告などを紹介します。ご自分たちの経験が、多くの方々、特にこれから入院しようという方々や、同じ有害事象(従来、副作用と呼ばれていたものですね)や合併症に悩む方々にとって貴重な情報となることを考慮され、HP上で公開して下さいました。とてもありがたいことです。ここで改めて、お礼申し上げます。多くの方々が引き続き、ここに貴重な経験を発表されることを、編集委員一同、心より希望致します。

目次

  1. アカシジアって何?(40歳女性、悪性リンパ腫/自家末梢血幹細胞移植後)
  2. 欲しくなかったプレゼント(48歳女性、子宮体がん)
  3. 細野流里子さん、病室の窓より駐車場を描く(50歳女性、子宮頚がん)
  4. Dさん、病室の窓より東山を描く(76歳男性、悪性リンパ腫、急性骨髄性白血病)
  5. 「続 春よ、もう一度」(59歳男性、食道がん再発+下咽頭がん)
  6. ガン女(め)(72歳男性、肺がん)

#1. アカシジアって何?(40歳女性、悪性リンパ腫/自家末梢血幹細胞移植後)

悪性リンパ腫の疑い〜告知

 今まで健康診断は安心するために受けるものだと思っていました。6月に受けた健診で便に潜血反応が出たため、「要二次検査」と書かれた通知が来ました。それを見てもあまり危機感はなく、そのうち検査に行こうと思いつつ、9月も終わりになっていました。個人病院で大腸ファイバーの検査を受けると、がんそっくりの病変があるという事で、精密検査に送ることになりました。その時点でも、まさか自分がそんな大変な病気とは夢にも思いませんでした。数日後、先生から「ご主人と一緒に来てください。」と言われた時やっと、ただごとではないな…と心配になりました。結果は`悪性リンパ腫の疑い´でした。病名も初めて聞き、先生も命に関わるような事はないと言って下さったので、ある程度冷静でいられましたが、紹介先が愛知県がんセンターだった事が何よりもショックでした。がんセンターは、以前、本山から瀬戸のほうへ抜けようと運転中に偶然発見し、「がんセンター」の文字を見ただけで怖くなってしまいました。もうこの道を通るのはやめようと思った事が、思い出されました。
 がんセンター初診の日、想像していたより清潔感があり明るい建物に少し心が救われました。がんの研究に役立てるという事で、生活習慣に関するアンケートと採血の依頼がありました。私はここにいるだけでもつらいのに、自分ががんと決められてしまったような気がして少し気分が落ち込みました。未来の治療に貢献しなければとアンケートは記入しましたが、とても採血する気分にはなれずお断りしました。今になってみると、血液の提供をして研究に役立ててもらわなかったことが悔やまれます。
 消化器内科の先生から悪性リンパ腫の説明があり、気分はどんどん沈んでいきました。ただ、悪性リンパ腫は抗がん剤がよ効く病気だという言葉だけに支えられて帰宅しました。それから大腸ファイバーの検査までの間、心配で眠れない、食欲のない日々が始まりました。主人は家で夕食をとることが少なかったのですが、その日から全ての予定をキャンセルして毎日早目に帰宅してくれました。主人が戻るまでは、2人の子どもたちが支えてくれました。夜は好きな音楽を流し、主人の提案で深呼吸と瞑想をしました。不思議と気持ちが落ち着きました。日中は仲の良い友人には現状を話し、誰かと昼食を一緒に食べてもらい、話をして、とにかくひとりにならないようにしました。神社の健康祈願へもつきあってもらいました。やっと大腸ファイバーの日がきました。検査中、先生たちの会話がはっきり聞こえてくるので、自分の思っていた以上に病気が進行しているのがわかり、検査台の上で、抗がん剤を覚悟しました。もう悪性リンパ腫は確かだと思ったので、4期ではありませんようにと祈り続けました。
 検査の結果は悪性リンパ腫4期でした。本当に時が止まりました。頭の中が真っ白になりました。先生の話も上の空でした。でも、同席した主人と父親が喜んでいる顔を見て、自分は治るんだなと我にかえりました。先生の「大丈夫ですよ!」という言葉に希望を持ちました。
 主人は動揺することなく冷静で、ネットや本で悪性リンパ腫の事をかなり詳しく調べてくれ、絶対に大丈夫だと言ってくれたのが、私にとって1番の安定剤となりました。病名がはっきりするまでのつらさは消え、入院・治療に向けて希望が湧いてきました。気持ちを明るくさせるため、服や身の回りの物は自然と明るい色のものになりました。黒い服は気持ちが沈み、身につけられなくなりました。色の効果を強く感じました。日中は引き続き友人と過ごし、夜は主人と深呼吸・瞑想を続けました。4ヶ月も家を空けるので、ゴミ出しの日や資源回収など細かいことをカレンダーに書くなど、やる事も多く、入院の日は思ったより早くやってきました。入院日はとても落ち着いていて、意欲に満ち溢れていました。娘が明るい笑顔で送り出してくれたのと対照的に、息子のうつむき加減の寂しそうな顔が印象的でした。頑張らないと…と思いました。
 病気になった事はとてもつらかったのですが、家族や多くの友人のあたたかい心をひしひしと感じ、病気なのにとても幸せ!という不思議な感覚でした。

入院生活〜治療

 個室希望でしたが空きがなく、3日間は4人部屋で過ごしました。その間、同じ病気の人の体験談を聞くこともでき、入院生活のノウハウも学びました。食事で嫌いなものは変えてもらえる事、うどんやおかゆにも変えれること等、そこまで詳しく説明がなかったので助かりました。個室に移りました。部屋は4ヶ月もいるので、なるべくきれいに、病室っぽくならないようにしました。明るく前向きな気持ちになれるようピンク系にしました。色と心はかなり密接に結びついています。また、4ヶ月を有効につかおう、何か資格を取ろうと思いました。テキストまで持ち込みましたが、治療が始まると活字が読みづらくなったり、集中力がなくなる時期があり、断念しました。好きな音楽を好きな時に聴き、本を読んだり、テレビを見たりと、のんびりできる休息と考え、楽しむように心掛けました。神様が与えてくださったバカンスと考える事にしました。最初の1ヶ月は異常に長く感じましたが、2ヶ月目からは結構早く過ぎていきました。看護師さんも親切で、気になる事はどんな小さい事でもどんどん相談するとよいと思います。そして毎日お掃除などして下さる看護助師さんにも大変お世話になりました。とても細かい心配りをして下さって、精神的にも支えていただきました。それから、先生の「順調ですね!」に勝る特効薬はありませんでした。

 病棟で渡される日誌には細かい事まで全て記入しました。それを見ると、だいたいの自分の体調や精神状態のサイクルがわかり、対処法がとりやすくなります。私の場合特につらかったのは、抗がん剤後3日間、夕暮れとともにやってくる鬱でした。自分ではどうしようもなく、急に不安になったりどこまでも落ち込んだりと、全く前向きな事が考えられなくなりました。看護師さんにお願いして部屋で話をしてもらったり、家族に来てもらったり、友人たちに電話をかけたり、(主婦にとっては一番忙しい時間で申し訳なく思いましたが、皆快くつきあってくれました)ひとりだけの時間を作らないようにしました。それでもずっとは難しいので、テレビやDVDでお笑いを見たりもしました。ただでさえ病気になった罪悪感が常に心にあったのに、この3日間はそれが助長され、自分を責めてばかりでした。もし鬱になったら、やはり看護師さんに気軽に相談されることをお勧めします。4日目からは不思議と鬱は来なくなり、3日間が嘘のようでした。回数を重ねるごとに、つらいけれどなんとかなると思って対策を練りました。
 抗がん剤中の尿の測定、瓶の洗浄も、なかなかつらいものがありました。点滴を引いて歩くだけでも負担が大きく、その上私は匂いに大変敏感になったので、洗浄液の匂いが耐え切れず、マスクを2重にして息をとめたりしました。みなさん自分でされていたようで我慢してやりましたが、今思うと看護師さんにお願いしてみれば良かったと思います。自分で頑張りすぎました。

 病院食にも悩まされました。1ヶ月でうけつけなくなりました。抗がん剤後は醤油系の匂いを嗅いだだけで気持ちが悪くなり、献立表を見て無理だと思ったら初めからお断りしました。後半は、冷めれば少しは食べれることに気づき、1時間位冷ましてから食べたりしました。日頃は和食党ですが、入院中は和食が食べられなくなりました。塩味、ケチャップ味、ソース味は大丈夫でした。気分転換に1階食堂の焼きそばをテイクアウトして食べたりもしました。残念ながら目玉焼きはよく焼いてもらわないといけません。病棟で頂く食べてもよい物のリストは、添加物の入ったものばかりで驚きました。レトルト食品、菓子パンなどは日頃から食べないようにしていたので、結局私は、病院食くらいしか食べられるものがありませんでした。悪性リンパ腫は生もの禁止の上、白血球の数が少ないとまた制限が増え、お見舞いで頂いたお菓子なども、いちいち看護師さんに聞いて確認してから食べました。売店はハーゲンダッツの品揃えが豊富で、それが1番の楽しみでした。とにかく日頃おいしいものにこだわりを持っていた事が入院中はマイナスとなり、本当に食に対していつも欲求不満でした。退院したら食べたい物をメモして励みにしました。

 病院では、眠剤を飲まないと眠れませんでした。それまで飲んだ事がなかったのでかなり抵抗があり、なんとか飲まずに眠れないかと思いましたが、眠剤なしだと眠りが浅い上、嫌な夢ばかりみるので飲む事にしました。結局4ヶ月飲み続けましたが、院と同時に全く不要となりました。吐き気止めのプリンペランの錠剤も予防的に飲み、気持ち悪いのも我慢しないようにしました。頭痛も早めにロキソニンを飲みました。毎日本当に大量の薬を飲んで心配でしたが、先生の指示に従って飲めば大丈夫です。

 私の入院期間は1月〜5月だったので、冬の間はA/Cによる乾燥がひどく、一日に何度もリップクリームとハンドクリームをつました。一般的にも抗がん剤治療後は肌の乾燥がひどくなるようです。のど・鼻を守るためマスクもできる限りつけました。また、インフルエンザの時期には一時帰宅も自粛しました。もちろん、手洗い・うがいは入念にしました。

 主人の提案で、毎日、家族が日記を書いてくれました。2冊作ってお見舞い時に交換しました。私の宝物です。家族の大切さ、ありがたさを改めて実感しました。家の事は、主人の母が4ヶ月間一緒に住んで助けてくれました。子どもたちは、両隣りの奥さん達にもかなりお世話になったようです。私の両親は、毎日、病院へ来て洗濯物を洗ってくれました。友人たちは電話やメールを頻繁にくれて、お見舞いにも来てくれました。病気を隠さずオープンにして、良かったと思います。また 偶然2年前に悪性リンパ腫の治療をされて完治された方が身近にいらして、その方を見ると、治るんだと勇気が湧きました。また、体験談を聞いたのもとても参考になりました。治療は先生を信頼してお任せし、精神的には多くの人の温かい心に救われました。感謝の気持ちで一杯です。

毎日の日課

  • 朝目覚めたら、布団の中で軽いストレッチ。できる時は、その後ラジオ体操。ラジオ体操は真剣にやると結構きついです
  • 食事のトレーの返却など、自分でできることはなるべく自分でする。もちろん体調のすぐれない時は、看護師さんも看護助師さんも、お願いすれば快く何でも手伝って下さいます。
  • 好みのお茶の葉などを用意してティータイムを楽しむ。病棟の給湯室へ自分で行って毎日好きな飲み物をいれました。その分歩く事にもなり気分転換もできました。ほうじ茶、コーヒー、ココア、紅茶、ハーブティー、色々揃えました。白血球が下がって外出できないときは、看護助師さんにお願いしたり魔法瓶にお湯を入れて頂いたりしました。
  • マスクをして散歩がてら売店へ行く。寝てばかりいるとすぐに筋肉が落ちるので、体調の良い時はスニーカーを履いて行ったり、1階分くらい階段を使うと適度な運動になると思います。白血球の低いときは閉店まぎわなど人の少なそうな時に行きました。
  • 手洗い・うがいをこまめにする。食後は体調が悪くても頑張ってすぐに歯を磨きました。そのかいあってか、熱は一度も出ませんでした
  • 食事はよく噛む。噛むと体に良い酵素が出ると本で読み、実践しました。
  • モーツァルトを聴く。モーツァルト療法は医学的にも証明されていて、がんの患者さん向けにプログラムされたものも出ています。気分が落ち着いたり、前向きにもなります。おすすめです!
  • 好きな香りをアロマオイルでたく。私は精油を水で薄めずそのまま使えるオイルディヒューザーを持ち込みました。夜は、ラベンダーの香りをたくとよく眠れます。病棟でも差込タイプのアロマポットを貸してくれます(無料)。精油も数種類用意されていましたし、本も貸して下さいます。香りがお好きな方は利用されるといいかと思います。ただし、直接体内に入るので、強いものもあり、精油の種類は調べたほうが良いと思います。私はかなり詳しく調べました。自己判断ですが、抗がん剤中と前後数日は使用しませんでした。
  • シャワーでデトックス効果を出す。身体の中の悪いものをシャワーで出してしまうイメージを持ちました。最大のリフレッシュタイムでした。シャワーを浴びる元気のない日は看護師さんに頼んで部屋で足湯などしてもらいました。これもおすすめです
  • 表情筋トレーニング(JALアカデミー版)をする。本当に笑わなくても作り笑いをするだけで健康になるそうです。
  • 世間から取り残されないようテレビでニュースを見たり新聞を読む。
  • 瞑想法を取り入れる。《イメージ療法》

ICUでの治療と“アカシジア”の恐怖

 いよいよ最後の山場、LEED療法プラス自家末梢血幹細胞移植を残すのみとなりました。私はICUで治療をすることになりました。ICU=こわいイメージがありましたが、下見をさせて頂くと、真っ白で清潔感のある部屋と窓の外には木々の緑がたくさん見えてよい雰囲気でした。ただ、今までフル活動していた携帯が禁止となり、友人とのメールが断たれたことは打撃でした。
 ICUの看護師さん達はとにかく気がきいて、部屋にも頻繁に顔を出してくれたり、いかに快適に過ごせるか考えて下さいました。シャワーも浴びれましたが、本当に簡単なシャワーがあるのみなので、冬だとかなり寒いのではないかと思いました。私は4月だったので特に不自由は感じませんでした。移植の部屋は少々圧迫感はありましたが、ビニールのカーテンも1方向閉めるだけで良いので気になりませんでした。ICUに移ってからは、手洗い・うがい・歯磨きをより入念にしました。歯磨きがつらいときは、看護師さんに手伝っていただきました。
 病棟では、抗がん剤後は予防的にも吐き気止めのプリンペランの錠剤を毎食前に飲んでいましたが、ICUでは錠剤より効き目があるという事で気持ちが悪くなりそうになると点滴で入れてもらいました。
 その日は・・・明け方、胃に不快感を覚えて目が覚めました。それでもまたトロトロと眠り、朝目覚めても、なんとなく胃がちゃぽんちゃぽんといっている感じでした。看護師さんにその事を話すと、「お薬を入れましょうか?」と言われました。いつもと少し違う症状だった事と、なんとか我慢できる様な気がしたのでお断りしました。でも看護師さんの「我慢しなくていいですよ」という言葉にお願いする事にしました。また少し眠り、目が覚めた時にいつもの自分と全く違う事に気づきました。そわそわと落ち着かず、2秒と同じ姿勢でいられないのです。歯を磨く間も集中力がなくじっと鏡の前に立っていられません。点滴を引きながらせまい室内をうろうろ動き回る事しかできませんでした。まるで動物園のゴリラでした。頭が混乱して気はあせるばかり・・・。すぐにナースコールをしました。
 私の話を聞いたり様子を見た看護師さんはすぐに、「アカシジアですね。」と言いました。“アカシジア”はプリンペランの点滴が既定量を超えた時に起こり得る症状で、今まで何人かなったことがあるけれども、皆さんちゃんと治っているので大丈夫ですというしっかりした説明に、少し安心しました。自分を自分でコントロールできないつらさは、相当なものでした。今までのどんなことよりもつらく、落ち着こうと思うと、歯をきゅっと噛んでしまったり、手や肩に力を入れてしまったりしました。次第にそれが癖になってきてしまいました。一般的には薬が抜ければ“アカシジア”もおさまるものらしいのですが、私はその日の事があまりにショックで、精神的にずっとひきずりました。そんな時、精神腫瘍診療科の小森先生の診察を受診することになりました。話を聞いて頂くだけでも気分が落ち着き、大丈夫!治る!と思えるようになりました。小森先生の毎日のカウンセリングでなんとか平常心を取り戻しました。予想外だった“アカシジア”の恐怖に、その日以降のICUの事は何一つ記憶にありません。大変だと聞いていた移植も、そのおかげでか、あっという間に終った気がします。待ちに待った退院の日がやってきました。

退院後の生活

 また家族そろって暮らせることに幸せを感じました。家族のために食事を作れる事が楽しくて、朝から夕食のメニューを考えました。でも、夕食の時間が近づくと急にドキドキとしはじめ、気持ちはあせり、ひとりだけソファーで横になるという日々が続きました。夕食を楽しみにしていたのがプレッシャーとなったのか、一日の疲れが出る時間だったのかはわかりませんが、夕食時に落ち着けるように安定剤を飲む時間を調節すると改善されました。薬も順調に減り、やはり日常生活は忙しいので“アカシジア”の後遺症など考える暇もなくなり、小森先生の外来も無事卒業となりました。それまで惰性でやっていた家事も楽しくてたまりません。食事も白いご飯とお味噌汁で幸せを感じました。4ヶ月もほこりのないきれいな病室にいたので、今まで見て見ないふりのできた所が気になり、現在我が家はほこりなし!です。

 悪性リンパ腫の方では・・・(現在移植後4ヶ月)

  • 右手が軽くしびれる
  • 黒くなった爪の下からよい爪が出てきてその時少し痛みを伴います。悪い爪がはがれそうになるので、色々な所に引っかかったりします。はがれてしまうと深爪の状態になるので結び目をほどいたり指先を使うことが難しくなります。
  • 腰痛・関節痛があり、身体に柔軟性が全くありません。
  • 足が疲れやすいので足枕をしています。
  • リツキサンの副作用で白血球が下がり、3日間白血球を上げる注射を打ちました。
  • 顔・首・耳の後ろなどにひどい湿疹ができてステロイドの塗り薬を塗らないと夜もかゆくて眠れません。(退院後ずっと)
  • お寿司を楽しみにしていましたが未だ食べれません。生ものには引き続き注意しています。
  • 人ごみは避け、外出するときは必ずマスクをつけています。
  • ディスポーザルのソフトコンタクトレンズを使用していましたが、1年くらいは使用しないほうが良いそうです。眼鏡で過ごしています。
  • メディカルウィッグを購入しました。その後美容院でカットしてもらうとよりナチュラルに! 全然わかりません。ただし分け目は地肌のようになっているもの、人毛混にするのがお勧めです。

 移植後1年間は慎重に過ごすつもりですが、神経質になり過ぎず、先生の指示に従ってできる範囲で外出も外食も楽しむつもりです。夏休みには1泊旅行もできました。
 治療はつらかったですが、退院したら全部忘れました。覚えているのは多くの方に良くして頂いた事だけです。主人が初めからずっと平常心で冷静にサポートしてくれた事がなによりでした。今では病気になってよい事がたくさんあったと思えますし、自分の人生が開けた気がします。

 読んで下さった方のお役に立つことがひとつでもあれば幸いです。病気の時はがんばってはいけないといいますが、悪性リンパ腫の治療は長期なので、やはり自分ががんばらないともちません。絶対治って元気になれる!と、よいイメージをもってがんばってください。入院生活は良い思い出でです。

コメント

 彼女との面接で一番記憶に残っていることは、ICU後に入られた個室のベッドサイドにビートルズの『マジカル・ミステリー・ツアー』のCDが置いてあったことです。私は、ビートルズのアルバムのうちこれだけは持っていなかったので、早速買いに出かけました。「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」というそれぞれジョンとポールの楽曲が両A面となっていたという史上最強のシングルが含まれているというだけで、ドキドキします。
 萩原朔太郎は『月に吠える』で、「どんな場合にも、人が自己の感情を完全に表現しようと思ったら、それは容易のわざではない。この場合には言葉は何の役にもたたない。そこには、音楽と詩があるばかりである」と書いています。だからそうしているというわけではありませんが、患者さんのベッドサイドにある音楽ソフトには、必ず目が向きます(誰もがi-podを使うようになったら、もうダメですが)。一時など、『患者さんだけの音楽』とか『ベッドサイド・ミュージック』という本まで書こうかと思ったほどです。
 さて、彼女は、「ストロベリー・フィールズ」を聴くことで何を表現していたのでしょう? ストロベリー・フィールズは孤児院ですから、孤独な治療を続ける気もちにぴったりだったのかもしれません。あるいは
I think I know I mean a "Yes" but it's all wrong
That is, I think I disagree
(「はい」と言っても、そういうわけではなくて、
 結局、同意はしていないんだと思う)
という歌詞は、いかにも、厳しいがん治療に同意する患者さんの心持ちのように読めます。そういえば、『マジカル・ミステリー・ツアー』自体、がん治療を彷彿とさせます。(YK)

#2. 欲しくなかった、プレゼント(48歳女性、子宮体がん)

 20年間、パニック障害に苦しんだ私に、次に届けられたプレゼントは、「がん」でした。しかも、「子宮肉腫」という珍しいがんで、肺転移も起こしている進行性のものでした。
 私は、今まで、ずっと、外出する時も、家にいる時も、突然来るパニックに怯えながら、安定剤を握り締めて、それでも、ハイヒールを履いて、なんでもないフリをして生きてきました。がんの告知を受けて、「完治は、ありませんよ。わかりますね」と言われた時も、泣かずに帰ってきました。私は、精一杯、背伸びをして、生きてきたんです。ただ、「神様は、不公平なのね」と、ぼんやりと考えていました。「どうして、私なの?」と。

 そんな私が、ハイヒールを脱いだのは、5月1日。がんセンターに入院した初めての夜のことでした。初めての病室、生まれて初めての手術を控え、不安はピークを迎えていました。同室の患者さんは、眠ってしまい。1人、眠れない辛い時間に耐えられず、看護師さんに、助けを求めました。次の朝、担当の中西先生から、精神腫瘍診療科の小森先生を紹介して頂き、お世話になることになりました。先生は、以前どこかで、出会ったことのあるような、そんな懐かしい感じがしました。私は、「ここでは、背伸びをしなくていいんだ。泣いてもいいんだ」と思いました。そんなふうに、思わせてくれる先生でした。
 初めての手術のことですが、手術前に、担当の麻酔科の先生、手術室の看護師さんが、とても丁寧に優しく説明をして下さいました。私が不安に思っていることを1つ1つ丁寧に、取り除いてくれました。だから、とても、安心して、手術を受けることが出来ました。
 でも、実際の手術は、とても大変だったようです。中西先生が考えていたより「がん」が広がっていて、出来る限り頑張って、取って下さいました。先生が、汗だくで手術室から出てきて、「まだお腹に小さいものが、残っているけれど、肺にもあるから、残ったものは、薬で抑えて行きましょう」と説明して下さったそうです。
 手術の後も 中西先生、小森先生の2人の先生は、毎日部屋を訪ねて下さり、それは、とても心強いものでした。小森先生は、いつも優しいまなざしで、私のとりとめのない話を聞いて下さいました。先生の前では、よく泣いていたように記憶しています。先生との時間があったから、私の心は、あんなにも穏やかだったのだと思います。モチロン、中西先生への信頼の心、優しい看護師さんたちの存在が私の心を支えてくれたのは、言うまでもありません。

 5月25日退院の日、私は「いつか、きっとハイヒールを履いて、颯爽と、このアトリウムを歩いてみせるから」と、心に決め、センターを後にしました。現在、ハイヒールで、定期健診に行っています。でも、心のハイヒールは、あの時に、捨てました。これからは、素直に生きたいと思っています。
 今は、ホルモンのお薬を飲んで、残ったがんと、闘っています。大げさかな?今のお薬が効いているのかどうか、6ヶ月ほど飲んでみないとわからないそうです。子宮肉腫は、子宮体がんの1種ですが、とても珍しく、ネットでも、なかなか多くの知識を得ることが出来ません。ただ、進行が早く、予後の悪いがんだということ。愛知県がんセンターのHPでも、進行性のものは、7人中5人は亡くなられたと書かれていました。とても、怖いです。私は、その2人に入ることが出来るでしょうか? いいえ。どうしても、入りたいと思っています。小森先生に「奇跡は、ありますか?」と訊ねたら、「確率は、とても、とても少ないけど、そういうことも、あるかもしれません」と言って下さいました。私は、「奇跡」を信じて、毎日を生きています。「きっと治る!!」と、言いながら、お薬を飲んでいます。子宮、卵巣、左の尿管を手術で切除したのですが、それらがなくなった感覚は、全くありません。手術前と、何も変わりないのです。今では、手術したことさえ、信じられないほどです。
 辛い思いをされている方、苦しい思いをされている方、どうか、「辛い」と、口に出して言って下さい。「苦しい」と、言って下さい。あなたのそばには、素敵な先生が、優秀な看護師の方々がいらっしゃいます。その辛さを取り除いてくれます。その苦しさを和らげてくれます。
 がん患者としての私の毎日は、がん告知を受ける前と、ほとんど変わっていないです。今までどおり、自分の仕事(家事)は、ぼちぼちこなせますし、お洒落も出来ます。無理をしなくなったくらいかな? 毎日、毎日、感謝しながら生きています。がんセンターの先生、看護師の方々に、いつもそばで、支えてくれる家族に、そして、私を取り巻く全てのことに。「ありがとう」と。

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 5/12にご両親も交えてお話ししたときのことを鮮明に思い出しました。一見、ご主人かと思うほど若々しい(これは看護師もそう証言しております)79歳のお父さんは肺がんで、ご自身も治療中でしたが、こう言われました。「私は脳天気。がんはありますが、かかったものは仕方ないと、ケ・セ・ラ・セ・ラとまではいきませんが・・・丁度、新しい照射の機械が入り、私が第1号でした。・・・83歳までで結構と神様にお願いしてあります。あと4年、孫が大学を出て、教員になって私の後を継ぐのを見届けてから」 とても圧倒されました。お父さんには「家族の声」への執筆依頼中です。
 私は、毎日午後1時に9階から4階に向けて回診を始めますので、その後、9階にみえた御本人とは、丁度1時からお話を続けました。こう言われたのが、心に残っています。「診断の経過が特殊だったので、自分の症状だけ重いように思います。はじめ、がんの疑いがあるけれど、がんの印がないと言われて、自分ではがんではないと思っていました。でも、次の病院で、すぐ、がんを告知され、でも原発は不明で、結局、ここで子宮だと分かったんですけど、普通の体がんだったら、もっと早く治療されたのに、なんで尿管なんかにできたのかって。何も悪いことはしていないのに」 2週間続いた面接は、いつもとても穏やかな雰囲気でした。私が懐かしいと感じて頂けるのは、たぶん顔が(雑種の)犬に似ているからでしょう。(YK)

#3. 細野流里子さん、病室の窓より駐車場を描く(50歳女性、子宮頚がん)

細野流里子さん、病室の窓より駐車場を描く細野流里子さん、病室の窓より駐車場を描く

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  2007年仕事始めの日の午後、いつもどおり細野さんのベッドサイドに来ると、消灯台の上にステッドラーの36色水彩絵具とスケッチブックがあるのが、目に入りました。
「あれ、絵を描いてるんだ?」
「そう」
「見せて」
「いやよ。下手だから」
「絵は、上手か下手じゃないでしょ。味があるかないか、好きか嫌いかだものね」
「先生、絵描くの?」
「うん、描くよ。毎日。絵日記」
「じゃあ、上手いんだな。それなら、余計、いや」
 といったやりとりが続いたあとで、私の粘り勝ちという感じで絵を見せてもらいました。この作品が、その2枚のうちの一枚です。
「描いたときは、紅葉で真っ赤だったけどね。今はもうぜんぶ葉っぱ落としてる」
「味がありますね。好きだなあ。これ、ホームページに載せさせて。おねがい!」(YK)

#4. Dさん、病室の窓より東山を描く(76歳男性、悪性リンパ腫、急性骨髄性白血病)

Dさん、病室の窓より東山を描くDさん、病室の窓より東山を描く

Dさん、病室の窓より東山を描くDさん、病室の窓より東山を描く

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 Dさんは絵描きさんです。もう一年近くクリーンルームにみえます。主治医より、ディグニティ・セラピーをしてもらえればということで、おつきあいが始まりました。白状しますと、Dさんのディグニティ・セラピーのための文書を編集していて、目頭が熱くなりました。そんな経験ははじめてでした。生命を大切に思う人のこころを強烈に感じました。
 本職の方に、絵を頂戴するのは気が引けましたが、病院の北側を描かれた細野さんの絵(#3)と対称的になることを思いつき、Dさんの病院南側の風景画をおねだりしたわけです。(YK)

#5. 「続 春よ、もう一度」(食道がん再発+下咽頭がん、59歳男性)

第9章 がん宣告

 アルコール依存症の入院治療を終えて、10年。早期食道がんの放射線治療を終えて、9年。社会復帰して、断酒継続にも自信を深め、これで一生酒を口にすることもなく、タバコも一日一箱にしてニコチン量を減らし、健康な社会生活により、日本の歩む長寿社会の波に乗って、老後の年金を当てにしての生活設計を模索していた頃。
 ある朝、パンを一切れ口にして呑み込もうとすると、のどの奥につかえたので、あわててコーヒーで流し込もうとするが、逆に吐き出してしまった。最初 は、パンが乾燥しているのと、老人がよくもちをのどにつまらせるのと同様の現象かと思い、さほど気にも止めなかったが、朝昼二回ずつ週に4回吐き出すに至り、9年前の食道がんによる入院を思い出す。当時は、酒の飲み過ぎで戻していたが、断酒して9年になり、あきらかに状況も違うことから、「進行がんは手術」という医師の言葉を思い出し、あわてて会社を早退し、前回早期発見で助けられた病院で検査を受ける。
 若い医師から「食道によくないものが二カ所ある」と言われ、すぐさま「がんですか」と聞くと「そうです」との答え。続けて「そんなにひどくはないので、手術のための病院を紹介しますが、どこか心当たりはありますか」との問いに、直前に本で読んだ"がん治療実績日本一"の愛知県がんセンター中央病院  を指名。紹介を受ける。
 食道がんについての専門的な本を読んでいると、手術後5年生存率が40から50%とか、食道がんは転移しやすく手術も難しいなどと知り、事の重大さや過去のつけが今頃にして現れたのか、退院後の仕事や生活はどの程度まで現状復帰できるのかなどの考えが、頭の中をめぐりはじめる。基本として、あかるく前向きに闘病生活に立ち向かい、強く生きる気持ちを持ち続けることが必要であり、これらのことが今後の人生を決めるといってもいいのではないだろうか。

2006年5月26日

 10年前のアルコール依存症での入院時は、「まだ死にたくない。助けてほしい」の一心で、病気に対する認識もなく、アルコールのせいもあって心身ともにパニック状態での入院であったのに比べ、今回は、食道がんがある程度進行しているのではないかと思い多少の予備知識を得て、「すぐ死に至るほどではな いが、数年後にそのときがきても不思議ではない。できるだけ苦しまないで死を迎えたいが、方法はあるのか?」と比較的冷静な入院となった。死への旅立ちの前哨戦となるかもしれないという覚悟の上での入院である。
 入院して最初に考えるのは、「手術で助かるか? あと何年生きられるか? 退院後、後遺症に悩まされながらどうやって生活するか?」などで、今後の寿命と生きる術である。若き日には、細く長く生きるより短くてもいいから太く思いきり生きていたいと考えていたものの、60歳を目前にして突きつけられた現実は、若くして描いた夢物語とは相当に異なるものではあるが、これも一凡人のひとつの人生であろう。これまでの自らの人生に悔いはないが、唯、きょうだいや子どもたちに迷惑をかけてきたことは、いまさら反省しても遅きに失した感は否めない。残る短いかもしれない人生は、周囲になるべく迷惑をかけないで、悪あがきをすることなく全うしたい。

5月30日

昨日、主治医より今後の入院治療計画の説明を受けるが、まだ頭がすこし混乱しているのか、すぐにはのみこめない。

6月2日

 中央病院には「かのこ文庫」なるものが週3回開催される。がんに関する本を5冊借りて関心ある内容を拾い読みした。中心は、術後の反動、調整としての漢方薬、心の持ち方、食生活である。
 死に対する恐怖心をもたず、特に肩肘はって立ち向かうこともせず、これまで通りの生き方のなかに「がん」という病気が加わったライフスタイルとして考えようと、現時点では思っている。自分の置かれた環境もあるが、体調、精神状態、医師やほかの患者のことばなども考慮しながら、自分なりに探っていきたい。

6月20日

 開胸手術に関しての恐怖心をぬぐい去ることはできないが、避けて通れない生命の岐路に立っているので、覚悟するほかはなさそうだ。

6月23日

 昨日、おとといと朝起きたら、髪の毛が20から30本抜けていた。聞いてはいたが、やはり二回目の抗がん剤で抜けはじめたか。シャックリがまた、昨日よりはじまり、今回は素直にすぐクスリをのむ。すると30分くらいは治まるが、その後またすこし始まる。このあいだに食欲がすこし湧く気がするので、看護師に聞いたら、吐き気止めも入っているとのことであった。そこで、食事前にものむことにした。また、昨日より便秘が始まったようだが、前回の薬があるので、看護師と相談して内服することにする。今は、素直になることが、闘病生活を楽にすることになるだろう。

6月26日

 がん剤はどの程度効いているのか分からないが、身体にいろいろ影響があるのは間違いないようだ。昼前に、待ちに待った便通があった。7、8時間後に効くという便秘薬が看護師の説明通りで、退院時にもらって帰ろうと思う。6月27日、退院。

一般の 病院ほども 暗くない
 がん病棟は 希望か達観か

「三割超え」 打率じゃなくて 日本人の
 がん死の割合い なんとかしてよ

死も覚悟 がん病棟の 室内の
 昔話は 大きく小声

第10章 手術、その後

2006年7月26日

 手術も間近なので、下咽頭がんについて、放射線か手術か意志を決めなければならない。本を読んでも医師のすすめも手術であるが、手術の場合、のどに穴をあけて、そこをふさぐ形で声をだすことになるかどうかは、やってみないとわからないという。聞いている範囲では、一生そうなりそうで、少々不便でも長生きするか、放射線の後遺症と再発の危険性はあるがふつうの形で短い年数を生きるかだ。どちらも大きい短所はあるが、生きるか死ぬかのときに贅沢など言ってられない。すこしでも長く生きていれば、医学の進歩で不便さも解消されるとも考えられ、とりあえず長く生きれるほうを選んでおこうかと思う。

7月29日

 手術について、頭頚部部長と副院長から説明、確認があった。大掛かりなもので、計8時間。再発の90%は、2年以内。そのあいだは、名古屋を動かないほうがいいかもしれない。それまで無事であれば、の話だが。

8月3日

 私の場合、過去の飲酒ががんに強く作用したのかもしれない。今になってみれば、自業自得と言えるのだろうが、後悔しても始まらないので、残る条件の中で生きていく希望を見出す他ない。

8月5日

 昨日の手術は前もって全身麻酔をしたため、痛みはおろか手術室の出入りさえ記憶にないうちに終了したが、そこには、声をほとんど失い、食道も狭くなり、首に穴のあいた私がいた。

模索する 声をなくして 生きる道
 かすかな光 探るわびしさ

(以後、しばらく記録なし)

2007年5月30日

 食道がん再発、余命3ヶ月の診断。

飲酒発 ダブルがん経由 あの世行き
 わがまま旅は 幸福飛ばし

コメント

 Kさんは、2006年8月に抑うつ状態で本科に紹介されました。その後、半年以上にわたり、うつ病のために緩和ケアを受けられました。食道がんの術後に、食べることもしゃべることもできない状態で、うつ病となられたので、ながらく筆談さえできない時期が続きました。今回の投稿に、その時期の記録がないことが、Kさんのうつ状態の重さを物語っています。お互いに、一番つらい時期だったと思います。しかし、なんとかそれを乗り越えられて、退院されました。
 ただし、その1ヶ月後、再入院で再発が確認されました。07年の6月のはじめに、エレベーターの前で偶然出くわしたKさんは、「おれ、もう終わり」と僕に笑顔で話されました。「?」「いのちだよ。もうお盆までもたんって」 僕は咄嗟に返すことばもなく、「そうか」とうなって、立ち尽くしました。「また、寄るから」と言って、その場を去りました。7月に、ナースステーションでカルテを読んでいると、Kさんに「先生、ちょっと待っててな」と声をかけられ、原稿用紙を一締め、握ってもどってこられました。「これ、体験記。前、言ってたやつね。もう間に合わんから、いいように使って。死ぬまでになんとかしてくれたら、きょうだいにも読ませられるかな。まあ、とにかく、いいようにしてよ」 それを見ていたナースは、「Kさんって、ああいう人だったんですね」と。カルテに貼付しておいた彼の闘病記のコピーを見せて、改めて彼の半生を振り返ったものです。読者の方々は、術前の記録を読まれて、こんな前向きな人でもうつ病になるのかと驚かれ、さらに、余命をつきつけられても持ちこたえてみえるKさんに再度、驚かれたことでしょう。
 この原稿が、「第9章」からはじまっているのは、彼が以前に記したアルコール依存症闘病記の続きだからです。続編は、製本されないようです。せめて、がんセンターのホームページに掲載させてもらうことになりました。遠方にみえるご家族にも、さっそく連絡したいと思います。(YK)

春よ、もう一度

#6. ガン女(め)(72歳男性、肺がん)

ガン女

君との暮しも もう二年を過ぎた。
君は あの時 突然私を訪れた。
それこそ 着たきり雀で。
  私は君を何の疑いもなく招き入れた。

二人の生活が 始まった。
  我儘で自分勝手で 何処に居るのかさえ分からない。
  何を考えているのか 理解できない。

自由ヶ丘の暮らしでは 周囲の人々をずいぶんふりまわしていた。
でも 最期には観念をして私に従ってくれた。

私は云った。
  「せっかくの出会いなのだ。仲良くやろうぜ」
  君は その意味が解っているのかどうか知らないが
  軽くうなずいた。
付き合いはじめてから もう三ヶ月がたっていた。

遠き山 誰も詩人に なれる秋
鳥渡る 淋しからずも 一人かな

第二ステージが 舞台を変えて始まった。
しかし それは恐ろしい現実が用意されていた。
それが 君の私に対する好意によるものだと理解するには
長い時間を必要とした。

二十日間の時の経過をへて 平穏な日々を
取り戻すことが出来るようになった。

水鳥の ゆくえも知らず 湖黙す
明け方の まだ生きている 寒さかな

突然ある日
  君は動きはじめた。
今度は 行動範囲を変えて来たではないか。

  「おいおい、こんなにお互いの気持ちを
  理解しあってるつもりなのに、それは無いではないか?」

  君は ただ黙っているばかりだった。

私は 君の気持ちが全く理解できなくなって来ていた。

  今度は 複雑で周りの人たちが困るような所へ
  君は歩き出していた。

私は 周囲の人たちのお力でやっと
  君を捜し出し 手当てをすることが出来た。
しかし それには三ヶ月を要した。
体力的には たいへんダメージを受けた。

  それでも君は 全く無頓着だった。
  やがて静かになってくれた。

私のことを やっと理解してくれたのかと思った。

それだけが 少し気がかり 虫の声
何事も 無きは幸 萩こぼる

しばらくして ある機会があって
君の動向を知ることが出来た。

  君は 又又行動を 開始しているではないか。

しかし 私は今度はおどろかなかった。

君も狭い世界で
ストレスがたまっているのかも知れない。

  「そうだ 一緒に旅行しよう。」
  云ったじゃないか。

どこも すばらしい風景と 歴史と文化と
少しばかりの味覚と 酒を楽しんで。
  君は 結構はしゃいでいたではないか。
気分転換に なったのかもしれない。

そして第四ステージがはじまった。
全て スムースに進み よい流れが続いている。
気分をやわらげるつもりで
モーツアルトを聴いている。
  「君は 気に入っているかい?」

私は もう少しこの世にいたい。
  勿論君と一緒にいる事は当然の事。

私には
  愛する家族がいる。 仕事がある。
  私を とりまいている
  善意の人たちがいる。

一日でも長く この豊かな生活を続けていきたい。
まだまだ したいことは山程ある。
  しかし君との関係は悪くしたくない。
  「何でも云ってくれ。
     今迄より もっともっと
     仲良くしようじゃないか。」

  そしてきっと最期は
    君と手を取り合って
      永遠の世界へ行くだろう。
だからこそ
  このかけがえのない現実を
    もっともっと大切にしたいと思っている。

秋夕日 エミーの笑顔 シスプラチン
そぞろ寒む モーツアルトと 白衣達

平成十八年十月十三日
自由ヶ丘
モーツアルトを聴きながら

コメント

  Yさんは、07年12月末に吐血で緊急入院されました。8回目のその入院で、翌年1月22日、不安を主訴に精神腫瘍診療科を受診されました。1月29日に退院になるまでのあいだ、わずか1週間程でしたが、忘れ難いお話を聞かせてもらいました。Yさんはディグニティセラピーにも挑戦されましたが、ここでは、前回入院時に作られた詩を転載させて頂くことにしました。
 Yさんは江国滋(も食道癌でしたが)のファンで、『癌め』も読まれたものの、どうもその敵対関係に飽き足らなかったそうです。そこで、それをもじって『がん女』とし、詩を書かれたわけです。病いの擬人化には、私も常々興味をもっていました。付かず離れずの余裕が感じられる時、治療やケアはもっとも充実するものと思います。(YK)

更新日:平成20年1月30日

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