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豊川沿いの見どころ その16~30

ページID:0496746 掲載日:2024年2月2日更新 印刷ページ表示
 東三河地方の人々に母なる川として親しまれている「豊川」。
 ここでは豊川沿いのみどころを、河口から上流に向かって紹介していきます。
*「とよがわびよりtwitter」で紹介した「豊川沿いのみどころ」のアーカイブです(一部追加、修正があります)。

豊川沿いのみどころ その16~30

その16

 豊川左岸の豊橋市賀茂町にある「賀茂しょうぶ園」です。菖蒲が約37,000株植えられていて、花しょうぶを楽しむことができる毎年5月下旬から6月中旬に「花しょうぶまつり」が開催されます。まつり期間中は夜間も花しょうぶが楽しめます。
ライトアップされた賀茂しょうぶ園

その17

 豊川右岸の豊川市一宮町にある「砥鹿神社」です。弥生時代より崇敬の対象とされてきたとされる本宮山。飛鳥時代大宝年間に、神託により里へ社殿を造営し山頂の社を奥宮、里の社殿を里宮としたとのことです。
砥鹿神社

その18

 豊川右岸の豊川市豊津町にある「大和の大いちょう」です。高さ約25m、枝は水平方向に10m以上ある大銀杏で、12月初旬頃に鮮やかな黄色になるとのことです。
大和の大いちょう

その19

 豊川右岸の豊川市松原町にある「旧松原用水取水口」です。1968年に牟呂松原頭首工が完成するまで使われていた松原用水の取水口跡で、案内看板や当時の施設の一部が残っています。
 松原用水は1567年に吉田城主酒井忠次が現在の豊橋市大村町に田を拓くため、豊川に橋尾井堰(現豊川市橋尾町付近)を築いたことに始まり、その後1693年に日下部井堰(現豊川市豊津町付近)へ、1869年にこの場所へと移築されたとのことです。
 現在は豊川の牟呂松原頭首工を取水口として、豊川右岸の農地に配水している松原用水ですが、2017年に「松原用水・牟呂用水」として、ICID(国際かんがい排水委員会)により世界かんがい施設遺産に登録されました。
旧松原用水取水口
松原用水についての詳細は下記リンクをご覧ください。

その20

 豊川左岸の豊川市金沢町と新城市八名井の境界付近にある「旗頭山尾根古墳群(はたがしらやまおねこふんぐん)」です。積石塚と土石混合墳からなる古墳群で、豊川流域後期古墳の中でも際立った特色を示しているとのことです。1978年に愛知県の史跡に指定されています。
旗頭山山頂から西側の古墳群

その21

 豊川右岸の豊川市東上町にある「炭焼古墳群(四号墳)」です。この古墳群の注目すべき点は、40以上という構成墳の多さだけでなく、郡中に小規模ながら前方後円墳(四号墳)を含んでいることだそうです。1954年に愛知県の史跡に指定されています。
炭焼古墳群(四号墳)

その22

 豊川左岸の新城市八名井にある「今水寺跡(こんすいじあと)」です。弘法大師が開山したとされていますが、その詳細は不明とのことです。中世では東三河屈指の大寺院でしたが、一説によると野田の戦いの頃に武田軍に焼かれたといわれています。
 今水寺本堂傍らに鎮守としての熊野権現があり、さらに奥の院として吉祥山(きちじょうさん)山頂近くに吉祥天が祀ってあったとされ、これが吉祥山の名前の由来となったそうです。現在もその名残として、吉祥天女の祠が残っていました。
今水寺跡
今水寺跡の弘法大師小堂
吉祥天女の祠
吉祥山山頂近くにある吉祥天女の祠

その23

 豊川左岸の新城市一鍬田にある「第1号樋管(牟呂松原頭首工)」です。写真中央にある樋管吐口部には、明治時代に「人造石工法」で構築された構造物が今なお堅固な状態で残されていて、産業遺産として評価されています。
 牟呂用水は1887年に賀茂村をはじめとする3村が、豊川に堰を設け一鍬田村から約8kmの賀茂用水を開削したことに始まり、その後大規模新田開発(神野新田)の開発に併せ賀茂用水から更に約16km延伸し、神野新田まで延びる用水施設として1894年に完成しました。
 1968年牟呂松原頭首工完成後、取水口から約5kmが松原用水との供用区間で、松原用水との分岐後約18kmが牟呂用水として受益地に配水されています。また、このときから牟呂用水は、都市用水も併せて供給することになりました
1号樋管
1号樋管及び牟呂松原幹線水路
世界かんがい施設遺産登録記念碑
1号樋管横にある世界かんがい施設遺産登録記念碑
牟呂用水についての詳細は下記リンクをご覧ください。

その24

 豊川右岸の新城市豊島にある「野田城跡」です。野田城は三河菅沼氏一族の居城で、武田信玄が生涯最後に城攻めをした場所です。1573年の野田の戦いの時にここで武田信玄を撃ったとされる火縄銃は、「信玄砲」として設楽原歴史資料館で展示されています。
野田城跡石碑

その25

 豊川右岸の新城市野田にある「タイヤランド」です。横浜ゴム(株)新城工場の北西隅にあり、タイヤランド内にあるタイヤで作られた怪獣(その名もゴムラ!)や恐竜の姿は迫力があります。水飲み場やベンチなどにもタイヤが利用されています。
ゴムラ

その26

 豊川左岸の新城市庭野にある「桜淵公園(さくらぶちこうえん)」です。桜が美しい場所ですが、紅葉も楽しめます。
 桜淵公園の南側にある「新城青年の家」駐車場横には、以前紹介した「旗頭山尾根古墳群」の第26号墳を移築復元したものがあります。また「桜淵いこいの広場」には、移築復原した「釜屋建民家」があり、新城青年の家に申し出れば自由に見学や利用が出来るとのことです。
桜淵公園
笠岩橋からの眺め
第26号墳(復元)
移築復元された旗頭山尾根古墳群の第26号墳
釜屋建民家
移築復原された「釜屋建民家」

その27

 豊川右岸の新城市竹広にある「設楽原歴史資料館(したらがはられきししりょうかん)」です。精強を誇る武田軍が織田・徳川連合軍に敗れ、戦国史を転回させた「長篠・設楽原の戦い」の資料などが展示されています。
 また、設楽原歴史資料館近くには、設楽原の戦い正面決戦の場所とされる連吾川に沿って「馬防柵」が復元されています。馬防柵の様式は、織田軍のものと徳川軍のもので違いがあるとのことです。
設楽原歴史資料館正面
設楽原歴史資料館
馬防柵
武田軍側から見た馬防柵(復元)

その28

 豊川左岸の新城市長篠にある「長篠城跡」です。長篠城は、1508年に菅沼元成が豊川と宇連川の合流する断崖上の要害に築城し、戦国時代は今川・武田・徳川が拠点として奪いあった城でした。国の史跡指定地となっていて、日本100名城にも選ばれています。
 同じ場所にある「長篠城址史跡保存館」は長篠の攻防に関する資料の展示があります。
長篠城
長篠城本丸跡
史跡保存館
長篠城址史跡保存館
長篠城の攻防戦については下記リンクもご覧ください。

その29

 豊川左岸の新城市長篠、国道257号・長篠大橋下流側にある「中央構造線長篠露頭」です。ここ長篠露頭は、外帯の黒色片岩の上に内帯の花崗岩源圧砕岩が覆いかぶさっている様子が明瞭で、中央構造線の基本的な断層の観察には非常に適した場所とのことです。
中央構造線長篠露頭
中央構造線については下記リンクもご覧ください。

その30

 豊川左岸の新城市長篠、長篠城址から北へ800mほどの場所にある「医王寺」です。医王寺は1514年に創立された曹洞宗の寺院で、長篠の戦いの時に武田勝頼が本陣を置いた場所とのことです。寺の裏山の本陣跡に物見櫓があり、長篠城址がよく見えます。
医王寺
医王寺山門
物見櫓からの眺め
物見櫓から南方向の眺め

独立行政法人水資源機構豊川用水総合事業部https://www.water.go.jp/chubu/toyokawa/

豊川総合用水土地改良区http://www.toyosou.jp/index.html

牟呂用水土地改良区

https://muroyousui.or.jp/

松原用水土地改良区

https://matsubara-yousui.jp/