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【展示終了】瀬戸市文化振興財団企画展「喫茶とせとやき―喫茶具にみる瀬戸窯の歴史―」へ出土品の貸出を行いました
調査研究課の城ヶ谷です。
瀬戸市文化振興財団企画展「喫茶とせとやき―喫茶具にみる瀬戸窯の歴史ー」に瀬戸市鶯窯跡(うぐいすかまあと)・上品野西金地遺跡(かみしなのにしかねぢいせき)・瓶子窯跡(へいじかまあと)、名古屋市名古屋城三の丸遺跡(なごやじょうさんのまるいせき)出土の陶磁器をお貸ししました。
喫茶の風習は、奈良・平安時代に唐から伝わったのが始まりとされています。
鎌倉時代には臨済宗の開祖栄西(えいさい)によって宋から抹茶に湯を注いで飲む点茶法が伝えられ、禅宗寺院を中心に普及していきます。当初は薬として認識されていたようですが、やがて広く飲用されるようになりました。
南北朝時代になると各地の茶を飲み当てる闘茶(とうちゃ)やお茶を中心とした宴会が流行し、茶は娯楽性の強いものとなりました。
室町時代後半、茶人村田珠光(むらたじゅこう)により佗茶(わびちゃ)が提唱され、高価な唐物中心の茶道具のなかに素朴な和物の道具を取り込んで、調和をとりつつ融合させようという動きが見られます。
この頃から瀬戸窯では中国の天目茶碗を模した鉄釉天目茶碗(写真下)の生産が盛んになり、戦国期には全国各地で出土するようになります。
安土桃山時代には、瀬戸・美濃窯で瀬戸黒(せとぐろ)・黄瀬戸(きせと)・志野(しの)・織部(おりべ)などのいわゆる「桃山陶」が生産され、国産茶陶生産が一つのピークを迎えます。
江戸時代になると、明から茶を湯に浸してその抽出液を飲む淹茶法(えんちゃほう)が伝わり、庶民にも喫茶の風習が普及していきます。これに伴い瀬戸でも急須や土瓶などがたくさん生産されるようになります。
今回の企画展はこのような喫茶の歴史を辿ったもので、令和6年12月22日(日曜日)まで長久手市郷土資料室2階企画展示室で行われています。 鉄釉天目茶碗(上品野西金地遺跡)
ぜひ、ご覧になってください。
**この展示は終了しました**