ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
ホーム > 組織でさがす > 財産管理課 > 愛知県庁舎の歴史

愛知県庁舎の歴史

愛知県庁舎の歴史 昔の庁舎

旧竹腰邸時代

 明治2年6月 名古屋城内の諸役所を引き払い、尾張藩付家老の竹腰氏の旧上屋敷に「政事堂」を設置し、執務を行うことになりました。なお、竹腰氏は明治元年に新政府によって、独立の藩として美濃今尾藩を与えられ、尾張藩から分離独立することになり、名古屋の邸宅から今尾に移転していました。
 明治4年7月14日の廃藩置県により、尾張の2藩(名古屋、犬山)、三河の10藩(豊橋、田原、半原、西大平、岡崎、西尾、挙母、重原、刈谷、西端)がそのまま県となりましたが、11月15日には尾張の2県を廃止して「名古屋県」、三河の10県を廃止して「額田県」が設置されました。
 設置当初の県庁は、従来、城内や陣屋内にあった藩庁をそのまま使用していましたので、名古屋県の場合は、旧竹腰邸を引き継いで使用することになりました。

竹腰邸の位置(愛知県名古屋市中区三の丸2丁目1番1号)

旧竹腰邸の位置は、現在の愛知県警察本部の建つ敷地の北半分であると推測されます。

東本願寺別院時代

 愛知県庁の設置されていた三の丸区域が、名古屋鎮台の兵隊増員に伴って、急遽、陸軍省に引き渡しとなったため、移転を余儀なくされ、明治初年から名古屋県の事務所がおかれていた東本願寺別院掛所に仮の庁舎として設置されました。

南久屋町時代

 もともと、東本願寺内の庁舎が仮庁舎であったこともあり、明治7年8月から内務省に対して新築移転を要望していましたが、名古屋駅から東に伸びる広小路通の終点(栄町筋の突き当たり)に西向きの庁舎が建設され、明治10年6月19日に開庁しました。左に県会議事堂、右には警察部の建物が置かれました。

南久屋町の庁舎(愛知県名古屋市中区栄4丁目1-8周辺)

南久屋町にあった県庁舎の位置は、現在の名古屋市中区役所の周辺であると推測されます。

南武平町時代

 政府による官営中央縦貫鉄道の中央線建設計画により名古屋東部に千種停車場を設置することになりました。それに伴って、名古屋停車場と千種停車場を市内電車によって結ぶために、広小路通を更に東に延伸することが計画されましたが、広小路通の突き当たりには県庁舎が位置していたので、道路改修を実施するためには県庁舎を移転させる必要がありました。これによって、南武平町の新庁舎は、明治33年4月1日に南久屋町の前庁舎の位置から北東方向、七曲町旧第一師範学校跡地に移転しました。県庁舎の西隣には議事堂が置かれました。
 建物は、木造2階建てであり、建坪一千八十五坪余、敷地九千四十五坪余と言われています。
南武平町の庁舎(名古屋市東区東桜1丁目13-2周辺)

南武平町にあった県庁舎の位置は、現在の愛知芸術文化センター周辺であると推測されます。

南武平町時代の議会議事堂

南武平町時代の議会議事堂

愛知県庁の歴史 現在の庁舎

 交通量の増大に伴う建物の整理の必要性、前の庁舎の老朽化、事務量の増大などから手狭となった等の理由から大正14年に新庁舎建設計画が持ち上がり、調査が開始されました。昭和3年には昭和天皇御大典の記念事業として名古屋市役所庁舎と共に新築移転が計画されましたが、スムーズに市会で可決されて昭和8年に完成した市庁舎と異なり、県庁舎は昭和3年7月臨時議会で記念事業案である敷地買収が否決となってしまいました。これは「多年の懸案となっている庁舎新築を記念事業として行うのは不適切である」という反対があったものです。その後、昭和3年12月通常議会では7月議会の案とほぼ同じものが可決されましたが、昭和4年2月臨時議会では、今度は、県庁舎改築費が審議未了となりました。そこで、当時の知事は内務大臣へ上申して原案執行に向けて事を運び、県庁舎の建築は昭和4年4月に国に許可されることになりました。昭和5年3月には国から移転新築用地として元騎兵第三連隊跡地約3.3ヘクタールの払い下げを受けましたが、当時深刻化していた財界の不況や、財源となるべき旧庁舎の敷地売却が難しくなったことから一時中止となり、着工が遅れ、昭和8年11月にようやく通常議会において予算総額300万円の庁舎新築施行が決定されました。昭和10年10月に着工となりましたが、建築施工中も経済情勢の急変による鋼材等の資材の高騰や日中戦争の勃発によって工期が半年近く延長という事態になり、困難を極めた事業であったと言われています。
本庁舎起工式の様子

本庁舎起工式の様子

庁舎外観

愛知県庁本庁舎

問合せ

愛知県総務部財産管理課
電話:052-954-6055
E-mail: zaisan@pref.aichi.lg.jp