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奥三河地域は愛知県の屋根と呼ばれる山深い地域です。そこは民族芸能の宝庫といわれるように、数多くの祭と芸能を守り伝えています。今回の奥三河探訪では、奥三河の祭の1つ「参候祭(さんぞろまつり)」について、見ていきます。
設楽町の南端に位置する三都橋(みつはし)の津島神社では、11月第2土曜日に参候祭が行われます。参候祭の由来は、津島神社の禰宜(ねぎ)が「何者にて候」と問うのに対して、七福神などが「参候(さんそうろう)、某は」と名乗ることに由来します。
祭りの舞台は津島神社境内。その中央に土で竈(かまど)を築き、竈の四方に御幣を立て、周りの地面に筵(むしろ)を敷きます。竈の西側には竹を束ねた松明を立て掛け、東側には鯉の滝登りの柄の幟(のぼり)を立てます。幟はこの他にも、獅子・鳥・龍・虎が、竈の南東・南西・北東・北西に翻っています。さらにその外に、注連縄で竈を囲うことで、参候祭の舞庭(まいど)が構成されています。
祭り当日の午後2時頃、粟島観音堂に禰宜や総代が集まり、十一面観音を御輿に移し、稚児の御輿を先頭に渡御行列(とぎょぎょうれつ)をなして、津島神社へ向かいます。夜の祭りが始まるまでの間、神々は暫しの休みを取られます。その間、不動役は滝で垢離(こり、冷水を浴びて身を清める事)をとり、湯立て用の水を汲みます。
夜、禰宜役2人が竈の前で座し、祝詞を上げて、汲んできた滝の水を竈へ注ぎ、湯を立てます。これで神迎えの準備が整いました。さあ、いよいよ神々の来訪の時です。
(竈の前で祝詞をあげる禰宜たち)
禰宜「かかる貴き神座へ、ことすさまじきなりをして、御出でたる者は何者にて候。」
不動明王「さん候、某は滝に住む大聖(たいしょう)不動明王とはわが事なり。」
禰宜「不動様にはなんとしてお出でなされ候。」
不動明王「一粒を千粒と思う滝の水、みだりに汲取るいわれいかに。」
滝の水を勝手に汲取ったことにご立腹の不動明王が神事に乱入してくるところから祭りが始まります。
禰宜「成程、御立腹はごもっともに候得(そうろえ)ども、当所にまします牛頭天王八王子並びに、白山大権現、十一面観音ほか、大小の神祇へ五穀成就、万民繁昌のため、湯を献じ奉らんと御断りもなく汲み申し候。しかし明王様にも、その湯を御献上なされお帰りなされ候へ。」
禰宜が汲取った理由を述べ、不動明王へ謝罪を述べる。この後、不動明王は納得し、そうであれば、魔を払う舞を行うと申してくる。それに対し、禰宜は突然話を変えて、不動明王が左右に持っているものは何かと聞いてきます。不動明王は「悪魔降伏を払う御剣利剣」と「悪魔降伏をからめとる縛の縄」と答え、縄を禰宜に渡し、代わりに鈴を持って不動の舞を舞います。
(不動明王の舞)
おおまかな流れは不動明王と同じであり、蛭子に対して、禰宜が何者かを問いただます。それに対して、
蛭子「さん候、某は天照大神宮の三男、西の宮蛭子三郎にて候。」
と返し、舞を踊り、湯を献じます。
ちなみに、エビスの神の由来は「事代主神(ことしろぬしのかみ)」と「蛭子(ひるこ)」の2つの説がありますが、参候祭では後者の蛭子の神(イザナミとイザナギの子供で、3歳になっても脚が立たなかったことから、葦船で流され捨てられた神)を指し、ここでいう「西の宮」というのは、蛭子信仰の総本社である兵庫県西宮市の蛭子命を主祭神とする西宮神社のことでしょうか。
(釣り竿と鯛を持った蛭子)
蛭子が竈の前で寛いでいるなか、毘沙門が舞庭に入ってきて、禰宜と問答をした後、蛭子に対して何者かを問いかけます。それに対して蛭子が名乗ると、
毘沙門「ヤー、汝は一とせ島へ流され、なべの内を敷地とし、東土に帰り万の初尾(うお)を食いながら、かかる神座へ出しゃばって見苦しい。帰れ帰れ。」
どうやら蛭子と毘沙門の仲は良く無いご様子。しかも初対面のような話しぶりです。かくして蛭子を追い返した後、毘沙門は舞を踊り、湯を献じて帰ります。
(竈の前で寛いでいる蛭子と入ってくる毘沙門)
先例通り、禰宜が何者かを問いただすところから始まり、大黒天は名乗ります。その後、禰宜は大黒天の持ち物を聞き、大黒天は「延命袋」、「打ち出の小槌」、「大福袋」、「かくれ蓑(みの)とかくれ笠」、「氏子繁昌の五穀を計る枡」、「チンカラリンのカンカラリン」と次々に持ち物を出していきます。まるで身ぐるみを剝がされているかのようです。大黒天はこれ以上無いと言いますが、それでも禰宜はまだ何かあると言って聞きません。禰宜は指を差しコレコレと尋ねますが、大黒天は見せてはならない物といいます。禰宜は引き下がらず、見せるようにと急かします。大黒天は「ままよ」と言ったかと思うと、紙に包んで水引をかけてあった陽物(ようぶつ)を、紙を手繰って、「ヌメクラ棒」と言いながら振り回し、竈の周りを走り回ります。その後、舞を踊り、湯を献じて帰ります。
(禰宜と問答する大黒天)
禰宜「かかる貴き神座へ女性の身として何者ぞ。」
どうやら女人禁制であったのでしょうか。他の神々の時とは禰宜の口調が違います。しかし、弁財天だと聞くと禰宜は口調を戻し、他の神々と同じように問答を続けます。
弁財天も他の神々と同じく、舞を踊り、湯を献じて帰っていきます。
(禰宜との問答を終え、舞に入る弁財天)
エボシ役3人が窯の前で扇の舞と剣の舞を踊ります。その後、禰宜が「ヨイ駒」といいながら駒を曳いて出て、駒に問いかけます。
禰宜「竜頭山のグゾバ(葛葉か)を食べるか」「笹の頭の山の笹を食べるか」
駒は首を横に振り、食べてはくれません。
禰宜「観音様のベラベラ餅を食べるか。」
そう聞くと、駒は首を縦に振り、食べる意思を示します。
この駒は田峯の朝田楽にも現れます。
ちなみに、この「ベラベラ餅」は12月になると、設楽町の道の駅したらや田峯特産物直売所などで販売されます。神が食べたいといった餅がどんなものか、試してみてはいかがでしょうか。
(禰宜に連れられる駒)
布袋がまず入って来て、同じように禰宜と問答を行います。その後、竈の周りを3度回ると、寿老人が入って来て、同じ所作を行います。最後に、福禄寿が入って来て、同じ所作を行った後、3柱は持参のお神酒(みき)を祝詞を唱えながら献じ、竈の前で飲み始めます。3柱は酔いが回ると、見物客にお神酒を与え、最後に湯を献じて帰っていきます。
(楽しい雰囲気でお神酒を飲む3柱)
殿面は東西南北中央の5方に米をまく「米打(よねうち)」を行います。
さいはらいは獅子を連れて、湯を献じて帰っていきます。
殿面、さいはらいの名称は田峯田楽と共通しており、湯立て神事の神楽とは異なる芸能です。
(米打を行う殿面。たねまき次第では、「悪の種は外へまく、福の種をば惣氏子へまく、神づとう空へまく」と唱える)
翌日の朝、十一面観音を御輿に乗せ、栗島観音堂に神送りをして祭りは終わります。参候祭は年に一度のイベントの年中行事であり、神が村に訪れる神事です。民俗学者の折口信夫は、こうした祭などに際し、常世から「稀に来る人」に神を見、神は村人を祝福するという信仰をマレビト信仰と名付けました。常世の国は海または山などの彼方にある国であり、そこから訪れる神をマレビトと呼び、またマレビトは山の神であり、祖霊神でもありました。前掲の奥三河探訪『神々が宿る作手』において、山の神や地の神を取り上げましたが、それら神々もまた祖霊神であったかもしれません。
マレビトたる七福神は、津島神社の湯立て神事に来ては、人々に福と笑いを授けていきます。古人曰く「笑う門には福来る」と。
(最後のくじ引きで筆者に当たった景品。どうやら福が訪れたらしいです)
愛知県史編さん委員会『愛知県史』別編 民俗3三河、愛知県、1998年
宮田登 編『七福神信仰辞典』、伊藤光祥、1998年
保坂達夫・福原敏男・石垣悟『来訪神 仮面・仮装の神々』、有限会社岩田書院、2018年