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15 うるわしの白百合。東三河と戦争のお話し(その1)

ページID:0376754 掲載日:2022年5月27日更新 印刷ページ表示

うるわしの白百合。東三河と戦争のお話し(その1)

 豊川が三河湾に向かって大きく弧を描き支流朝倉川と交わるところ。
 豊橋公園内に「エール」ポストが設置されました。
 これは、一昨年、放送されたNHKの朝ドラ「エール」のモデルとなった古関裕而さん・金子さん夫妻の出会いが文通から始まったことにちなんで設置されたもので、このポストに投函された郵便物には特別な絵柄の消印が押されるそうです。
豊橋公園内に設置された「エール」ポスト
豊橋公園内に設置された「エール」ポスト
 さて、朝ドラ「エール」の中で、私がもっとも印象に残っているのは、古関金子さんをモデルにしたヒロイン「音」の母親役を演じる薬師丸ひろ子さんが、1945年(昭和20年)6月の空襲で焦土と化した豊橋の街を前に、讃美歌「うるわしの白百合」を独唱するシーンです。
 その歌には、喪失の哀しみと鎮魂、そして復興への祈りが込められていました。
 豊橋にはかつて、軍都とよばれた時代がありました。
 明治維新で誕生した新政府により近代的な軍隊の整備が進められるなか、1884年(明治17年)に名古屋で創設された第3師団下の豊橋陸軍歩兵第18連隊は、その後、吉田城址(現在の豊橋公園)に建設された兵舎に移り、豊橋に駐屯することとなりました。
豊橋公園に残る哨舎(しょうしゃ)と門
豊橋公園に残る哨舎(しょうしゃ)と門
 時代は進み、日露戦争の後、東海地方に陸軍第15師団が増設されるにあたり、豊橋は誘致活動を行います。
 沼津、静岡、浜松、岐阜などとの誘致合戦の結果、豊橋への駐屯が決まり、1908年(明治41年)、現在の愛知大学内に師団の指令部が置かれました。演習場となる高師原、天伯原の広大な台地が、攻略目標である満州の地形に似ていたことが誘致の決め手となったようです。
陸軍第15師団司令部庁舎(現愛知大学記念館)
陸軍第15師団司令部庁舎(現愛知大学記念館)
 第15師団の駐屯により、当時、4万人ほどの人口であった豊橋に、兵士の他に関係者も含め約2万人の人口が加わることで、地域経済が活性化するとともに、社会インフラの整備も進み、豊橋の街は一気に近代化することとなりました。
 古関金子さんのご実家も、高師で商店を営み、第15師団に蹄鉄や馬具などを納めていたことからも、軍需が地域に活況をもたらしていたことの一端が垣間見えます。
 この頃、1912年に陸軍により高山浄水場が整備されたほか、1924年に渥美電鉄により渥美線の一部が、1925年には豊橋電気軌道(現豊橋鉄道)により市内線路面電車の一部が開業しています。その他、下水道整備、道路拡張、発電所建設も行われました。
 なお、当時の陸軍における「師団」は、ひとつの作戦を遂行できる戦略単位で、3ないし4個の「歩兵連隊」とそれを支援する騎兵や砲兵などの連隊で構成される総勢1万人から2万人規模の部隊であったようです。
 また、「師団」に所属する「歩兵連隊」は、それぞれ大隊・中隊・小隊などで構成され、吉田城址に駐屯した歩兵第18連隊については、概ね4千人程度の部隊であったようです。
 今回、第15師団指令部がおかれていた愛知大学記念館を見学させていただきました。
 コの字の両翼を持つ木造2階建ての洋風建築物で、イギリス、ドイツ、イタリアなど様々な国の様式や意匠が施されています。
 この建物は、豊橋の大工、宮大工が全国を回って学んだ技術の粋を集めて建てたものであるとのことです。
陸軍第15師団司令部庁舎内の正面階段
陸軍第15師団司令部庁舎内の正面階段
 ヨーロッパでは石造りである柱も、ここでは木材を巧みに加工して再現しており、至る所に工夫を凝らした飾りが施されています。
 また、正面の階段の手すりも直線ではなく、木材をわずかに湾曲させるなど、随所に細部へのこだわりを見ることができます。
レトロガラスの窓
レトロガラスの窓
 レトロガラスの窓から差し込むやさしい日差し。
 ここが昔、軍の施設だったとはとても信じられません。
 第1次世界大戦後の世界的な国際協調の動きと関東大震災の復興資金の捻出などから軍縮が行われ、第15師団は1925年(大正14年)に廃止されますが、その後に、施設を利用して陸軍教導学校、予備士官学校が設置されます。
 一方、歩兵第18連隊は、日清・日露戦争を始め多くの作戦に従軍した後、太平洋戦争に従軍し、1944年7月、マリアナ諸島グアム島での戦闘において最期を迎え、豊橋の地に帰ることはありませんでした。
 1945年6月、豊橋の街は空襲を受けます。
 中心市街地の大部分が消失し、駅や市役所などの主だった建物はほとんどが失われ、600人を超える市民が犠牲となりました。
 そうしたなかで、中心市街地から離れた場所にあった第15師団の関係施設は難を逃れます。
 その後、戦後復興が進められるなかで、歩兵第18連隊の駐屯地は、豊橋公園として市民の憩いの場となり、第15師団の駐屯地は、愛知大学の設立、時習館高校の移転、豊橋工業高校、豊橋聾学校、南部中学校、栄小学校などの立地によって文教地区に生まれ変わります。
 また、高師から太平洋まで広がった演習地は農用地へと転換され、「新たな故郷の花祭りのお話し(豊橋市西幸町「御幸神社」)」でもご紹介したように、豊川用水の通水により、陸軍の演習地であった高師原や天伯原は全国でも有数の農業地帯となりました。
天伯原、高師原を望む
天伯原、高師原を望む
 私たちは多くの犠牲の上に今、豊かな暮らしを享受しています。
 私たちの平和な日常は、ただ与えられたものではなく、これからも皆で守っていかなくてはならないものです。
 次世代に向けて、このメッセージを投函したいと思います。

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