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新郷瀬川の成り立ち
2.新郷瀬川の成り立ち
新郷瀬川の流域は、もともと一級河川木曽川流域ではなく、南隣の一級河川庄内川へ流れる五条川の流域でした。1633年に五条川上流の山間を堰き止めて、当時日本最大級の貯水量を誇るため池(入鹿池)が築造されました。
1868年の長雨で入鹿池の堰堤が決壊し、氾濫した水は地形なりの傾斜で流れて遠く南方の名古屋市まで浸水が広がり、2,000人以上の死傷者がでる未曽有の災害が発生しました。
これを受けて、郷瀬川や五条川の上流など、幾つかの支流を付け替えて、五条川から流域を変えて、洪水を北の木曽川へ導く計画が立てられました。この計画に基づき新たに掘られた放水路(承水溝)、人工河川が新郷瀬川になっており、新郷瀬川の左岸(東側)堤内地は庄内川の流域となっています。
1868年の長雨で入鹿池の堰堤が決壊し、氾濫した水は地形なりの傾斜で流れて遠く南方の名古屋市まで浸水が広がり、2,000人以上の死傷者がでる未曽有の災害が発生しました。
これを受けて、郷瀬川や五条川の上流など、幾つかの支流を付け替えて、五条川から流域を変えて、洪水を北の木曽川へ導く計画が立てられました。この計画に基づき新たに掘られた放水路(承水溝)、人工河川が新郷瀬川になっており、新郷瀬川の左岸(東側)堤内地は庄内川の流域となっています。
年 | 事項 |
---|---|
1608年~1609年 (寛永8年~9年) |
御囲堤築造による木曽川旧派川の締め切りに伴い、旧派川へ用水を流下させるため般若用水が改築される。 |
1610年 (寛永10年) |
般若用水の供給を受けられない区域の用水を賄うため庄内川水系五条川上流の山間を堰き止めてため池(入鹿池)が築造される。 |
1868年 (明治元年) |
長雨によって入鹿池の水嵩が増し、堰堤が旧暦5月13日に決壊し未曽有の大規模被害が発生した。 死者941人、負傷者1,471人、流出家屋807戸、浸水家屋11,709戸 |
1882年 (明治15年) |
入鹿池の堰堤右岸の岩盤を掘削して、築造以降初めて余水吐きが造られる。 |
1866年 (明治19年) |
郷瀬川の流末を五条川から犬山城の麓から木曽川に注ぐ流路へ付け替えが完成する。 |
1901年 (明治34年) |
五条川上流から郷瀬川を経由する木曽川への放水路(承水溝)建設である「入鹿側開鑿工事」を含めた大治水継続事業案が県会に提案されるが、否決される。 |
1932年 (昭和7年) |
時局匡救事業による内務省の中小河川改良国庫補助で開削事業が開始される。 |
1944年 (昭和19年) |
承水溝が完成し、新郷瀬川と命名される。 |