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治山事業の歴史(萩御殿、ホフマン工事)

 かつて愛知県は、岡山県、滋賀県とともに三大ハゲ山県の一つに数えられ、これまでに二度にわたるハゲ山の歴史を経験しています。
 一度目は江戸時代から明治時代で、二度目は第二次世界大戦中から戦後の時代です。
 これは、人々の生活と農業生産が拡大し、森林から繰り返し薪や枝葉・下草を採取したことが原因と考えられています。
 こうした状況に対し、明治後期からの本格的な治山事業の実施により、現在では森林は見事に蘇り、豊かな緑に覆われています。
 先人達が、緑あふれる県土を夢見て、地道に続けられてきました森林の復旧に向けての歴史は、「萩御殿」「ホフマン工事」をとおして感じることできます。

萩御殿

 明治33年(1900)から県による初めての大規模なハゲ山復旧工事が東春日井郡瀬戸町字西茨(現在の瀬戸市萩殿町一帯)等において実施され、多くの見学者がありました。この人たちの利便を図るため、工事が一望できる位置に、萩を多く用いた建物を設置して提供しました。この建物を人々は「萩の茶屋」と呼んでいました。
  明治43年(1910)11月17日 この地に、皇太子殿下(後の大正天皇)が行啓され「萩の茶屋」から緑に回復しつつある山々をご覧になり、記念にアカマツを植栽されました。
  その後、「萩の茶屋」は行啓を記念して「萩御殿」と呼ばれるようになり、瀬戸市萩殿町の町名はこのことに由来しています。
  当時の建物はすでに消失しましたが、平成16年度には、治山事業「萩殿の森環境防災林整備事業」において、この「萩御殿」を模した休憩施設を建設しました。
 「萩殿の森」には、明治時代後期にハゲ山復旧工事の跡が今でも数多く見ることができます。
荻御殿
萩御殿の地図

ホフマン工事

 明治38年(1905)に、県はハゲ山を復旧するため、東京帝国大学農科大学に設計を依頼し、その時提出されたのが、同大学雇教師アメリゴ・ホフマンが林学科学生の山崎嘉夫・弘世孝蔵の卒業論文として指導した設計書です。
   県は同年、弘世が設計した第2号支渓(現在の瀬戸市東印所町)について工事を行い、模範砂防工として完成させました。
  この工事は、ホフマンが設計を指導したためホフマン工事と呼ばれています。
  ホフマン工事は、山腹面への植栽は行わず、土砂の浸食や崩壊をある程度まで自然に任せ、渓流を安定した勾配に導き、渓流と山裾を固める工法で、当時オーストリア及びフランスで広く用いられていました。
   当時のハゲ山復旧工事では、山腹面に階段を切り付け苗木を植栽する工法が広く行われていました。ホフマン工事以降においてもハゲ山復旧の重点は森林造成に置かれていましたので、ホフマン工事は定着しませんでした。
   しかし、設計にあたって、縦断面図を作成して渓流の安定を考え、土堰堤の安定や放水路・水叩きなどの各部の大きさを計算によって求めるなど、近代科学に基礎をおく設計思想が取り入れられました。その後の治山技術の発展に大きな影響を与えたと考えられています。
ホフマン工事平面図

ホフマン工事平面図

明治42年(1909)当時

明治42年(1909)当時

アメリゴ・ホフマン

問合せ

愛知県 農林基盤局 林務部 森林保全課

E-mail: shinrin@pref.aichi.lg.jp