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一宮建設事務所 一級河川 青木川(新川水系) 

ページID:0212133 掲載日:2018年10月1日更新 印刷ページ表示

事業概要

事業概要
  延長  事業着手            流域市町
 18.3km 昭和42年度 一宮市、稲沢市、江南市、扶桑町、犬山市
一宮市での河道改修状況

河道改修状況(一宮市)

江南市での河道改修状況

河道改修状況(江南市)

名鉄犬山線の改築を完了

名鉄犬山線の改築(江南市)

青木川の概要

 青木川は、川の長さが18.3kmの一級河川です。川に沿って一宮市、稲沢市、江南市、扶桑町、および犬山市があり、4市1町あわせて約46km2の範囲(流域といいます)の雨水などを集めて流れる河川です。途中、一宮市丹陽町で一宮市内を流れる縁葉川と合流したのち、五条川に合流します(ここが青木川の最下流地点で、これより下流は五条川となります)。その後、五条川は新川、庄内川と合流していき、最終的には名古屋港で伊勢湾に注いでいます。

流域とは

 川に沿った周辺の地域をさす言葉。雨が降るとその水は近くの川に流れ込むことになるが、例えばその川が青木川ならば、その場所は青木川流域となります。流域の面積が大きいほどその川の規模は大きくなることになります。また、青木川は五条川を通って新川に流れ込んでいるので、新川流域の一部でもあります。

 例)青木川の流域面積・・・約46km2(新川流域・・・259km2)
   一宮建設事務所管内にある流域・・・新川流域、日光川流域、木曽川流域
   青木川は上流から順に、青木川→五条川→新川→庄内川→伊勢湾(海)

青木川(中・上流部)の歴史について

 一級河川青木川の江南市及び扶桑町内の前身(昭和5年10月および昭和50年4月に河川法に基づく河川として指定される前)は、用水と排水を兼ねる川(現在の丹羽用水路の一部)であったとされます。

 歴史書1)には、”青木川は、古来木曽川一之枝の遺跡であったが、のちにその面影は失われ、丹羽郡古知野町(江南市)大字宮後付近の平坦部を水源として、多くの小排水路を合流し、・・・(中略)・・・、延長13.9mの排水河川である。・・・”と書かれています。ここで書かれている”一之枝”とは、その歴史書の中に”一之枝、または石枕川という。尾張国丹羽郡木津村より南流し、上野村へ流れ、石枕新田に至る。別に派川同郡南山名村へ流れる。”とも書かれています。

 16世紀の尾張平野は水田および畑が広がり、水田の水はその大部分が木曽川の水を利用していたが、その木曽川は当時犬山から下流の扇状地を幾条にも分かれて流下していた。つまり、”一之枝”とは木曽川の派川の一つであり、この水を利用して水田等の農業が営まれていたと考えられます。

 その後17世紀に入り、幾度となく襲った木曽川の洪水から尾張平野を守るために、徳川家康の命により慶長13年から14年(1608~1609年)の2年間で、犬山から当時木曽川の河口であった弥富にかけて約40kmにおよぶ大堤防を完成させている。これが、”御囲堤”の名で知られる木曽川堤防です。

 この堤防完成により、扇状地を流下した幾条かの木曽川派川はすべて断ち切られ、水源を失い、平地の雨水等のみが流れる排水河川となってしまったが、この出来事が、歴史書に記されている状況を示していると考えられます。

 しかし、その後の青木川は、上記の歴史書にも書かれているが、現在の江南市宮後付近にあった清水を水源として、この水源より下流は日常的に水が流れている川として存在していたと思われます。なお、この宮後地区に伝わる”お菊物語”の中でも「前野の清水」について記述されており、青木川水源地としてあったことが伺われます。

 一方、17世紀の堤防完成により、木曽川扇状地では治水の面では良くなったが、農業を営むための水源がなくなってしまったため、寛永10年(1633年)に江崎善左衛門ら6人(入鹿六人衆)により入鹿池が築かれ、尾張北部地区(今の五条川、薬師川、大山川周辺地区)に入鹿池の水が導かれました。しかし、その後も尾張北部地区は移転者が増え、それに伴い原野の開墾も盛んになったため、新たな水源を水量が豊富な木曽川に求め、先の入鹿六人衆が中心となり、慶安3年(1650年)に木津用水が完成、続いて小牧市・春日井市の一部の開墾の機運が高まりみせたため、当時の丹羽郡荒井村(現在の丹羽郡大口町上小口、中小口)に堰を設けて分水することを計画、新木津用水として寛文4年(1664年)に完成しています。

 ”一之枝”の沿川(川に沿った地域)である丹羽郡扶桑町、江南市周辺においても、当時は原野の開墾が盛んにおこなわれたと考えられるが、お囲い堤により水源が断たれてしまったため、新たな水源の確保が必要であったと考えられます。このため、木津用水の完成と時を同じくして、木津用水から分岐する下野用水路1)(現在の丹羽用水の前身と思われる)が造られたと思われます。これについては歴史書2)の中で、”此の大井堀(木津用水のこと)計画施工の特色は、用水幹線水路と併工して、枝井筋と称する分水路数条を、主要各地に開さく(掘って築くこと)したことで、・・・”と記されており、この分水路数条のうち1つが下野用水路であったと推測されます。

 現在、江南市宮後付近で見られるコンクリート水路は、昭和30年代以降にかんがい排水事業として土地改良区により整備されたものです。その後、昭和40年代に入り、国営濃尾用水事業の一環として扶桑町、江南市の一帯において畑地かんがい工事が進められ、昭和47年に完成しています。これをきっかけとして、青木川のかんがい用水としての役割は薄れていくことになりました。
 一方、昭和30年から50年にかけて江南市、扶桑町一帯は高度経済成長時代にあわせて、名古屋のベッドタウンとして急速に発展し、それに合わせて田畑が埋め立てられ市街地が急増してきました。このため、ひとたび雨が降ると川や低い土地に一気に雨水が集まるとともに、青木川の川幅は狭いため、雨水を安全に下流へ流すこともできず、住宅や道路が浸水する被害が発生し、市民生活に大きな支障をきたしてきました。
(過去においては、青木川周辺で発生した主な浸水被害については、”新川流域浸水実績図(愛知県建設部河川課のページ(新川流域浸水実績図))”を参照して下さい。青木川流域では昭和49年、昭和51年、平成3年、平成12年および平成23年に大きな浸水被害がありました。)

 このため、江南市および扶桑町内の用排水路(現在の青木川)についても河川として整備する必要が生じたため、江南市木賀地区より上流、犬山市・扶桑町境までの区間については、昭和50年4月に一級河川青木川として国により指定され、現在は河川法に指定された河川として愛知県で管理されるに至っています。

(参考文献)
  1)新編 宮田用水史、宮田用水土地改良区、昭和63年11月、P436、805
  2)木津用水史(改組編)、木津用水土地改良区、昭和50年2月、P12

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電話:0586-72-1248(事業第一グループ)
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