お問い合わせ先

愛知県政策企画局
企画調整部企画課
地方分権グループ

住所 :
〒460−8501
名古屋市中区三の丸三丁目1番2号
電話 :
052−954−6473(ダイヤルイン)
電子メール :
kikaku@pref.aichi.lg.jp

トップ > 愛知県の主張・取組:セミナーの開催 > 地方分権タウンミーティング名古屋会場 > ゲストスピーカー意見発表(要旨)

愛知県の主張・取組

ゲストスピーカー意見発表(要旨)

中日新聞論説委員 飯尾歩氏(文責事務局)

○中日新聞は、名古屋は別にしても、地方の記者クラブに所属していると半端な立場に立たされる場合がある。地元1県をカバーする県紙があり、全国をカバーする全国紙があって、その中間でブロック紙というふうに称している。なんとなく中途半端な気分でいるときもあるが、そうではなく本当は仕事がしやすい。一つの県にこだわらなくても、一つの地域にこだわらなくてもいい。

○それから例えば、もし新聞に力があるとするならば、読者からいただく信頼の力に他ならないわけであるが、その場の力というものが、一つの県に留まらない代わりに、場合によっては全国紙以上に力を発揮するということが、特に愛知、中部という有力なリージョンで本拠を置く場合には、中部・東海という枠組みを考えたときに何の違和感もなくすっと入ってくる。

○最近、名古屋経済が元気であるとか、名古屋本を作ると売れるとか言われているが、これは、名古屋という言葉で代表されてはいるが、実際は中部。名古屋に代表される中部の力。中部新空港のプロジェクトが起きるときや愛知万博でもそうであるし、もうちょっとネガティブに伝わっている部分では徳山ダムや長良川河口堰でもそう。三県一市の枠組みにおいて、近代経済政治史の中で、我々は知らず知らずのうちに道州制を先取りしてきたようなことがある。

○名古屋で代表されると言っても、万博は瀬戸と長久手、中部新空港は常滑にできるわけであるし、長良川河口堰は、場所は岐阜の話ではなく、設置されている場所自体は三重。もともと中部や三県一市の枠組みということで、我々は東京と大阪の間で浮き沈みのない地位を保ってきたような気がする。これがこの先どういうふうになるのか、非常に面白い。

○実は、今までの東京一極集中について、このテーマの一つでもある「顔の見える道州制」にも関係するが、我々は、東京というのは非常に親しみがあるように思っているが、実は直接見ているのではなく、テレビの画面を通して東京を見ているに過ぎないのではないか。ある意味でバーチャルなことばかり見ている。道州制の意味を考えると、今まで、東京対自分の居住する地域、自分の活動する地域という、1対1の関係で地方と中央の関係を捉えてきたが、その1対1の関係をぶち壊すことではないかと思う。東京経由でものごとを考えないようにする方法や手続きができるようになる。

○最近特に実感するが、のぞみの値段が事実上安くなったこともあり、また品川に止まることもあって、のぞみが朝から晩まで、その日の予約はいっぱいになっている。それだけ東京へ行かなければならない。我々、論説懇談会というのが時々あり、中部のブロックの力というものがあるから、全国紙の中央の省庁の懇談会に入れていただけたりする。ある省庁の懇談会がある場合、資料を事前に説明するので、都合のいい日をご指定くださいというファックスが来る。さらに僕のところにはファックスを追っかけて電話が一本かかってきて、もし東京へお寄りの際はご一報いただけますか、こちらへ来ていただければ説明して差し上げますよ、みたいなことを言われる。やはり東京へ行かなくては駄目で、新幹線があれだけ混むということになる。

○今までどういうことが起こっていたかを考えると、やはり我々の中で、「顔の見える自治」という意味では、有権者あるいは消費者生活者のレベルでは自治に対するあきらめみたいなものが非常に強く出ているのではないか。結局はどうせ東京で決まるんだ、霞が関で決まるんだというようなあきらめが強く出てきているのではないかと思う。それが自分のところで決められるようになる。

○先ほど文部省の話が出たが、駆け出しのころからの経験で言うと、まず市町村役場を担当することになるが、学校の先生、教頭先生あたりから電話がかかってきて、今度、こういう特色のある授業をするので取材に来ないかと言われる。喜んで行きます。その後、2、3年経ち県庁の担当なって、県教委を取材するようになると、これはその学校の特色ではなくて県教委が今年こういうことをやるというふうに決めて全県に通知していた。たまたまご一報いただいただけなんだというふうに思ったということがよくあった。

○それからしばらくして文部省を直接取材するようになると、これが結局は地域の特色でもなんでもなくって、文部省、今でいう文部科学省が全国に一律に網をかけていたものだということがだんだん分かって、がっかりするようなことがあった。それを地方の方へ戻すにはある程度の場の力というのが必要で、きめ細かなサービスはできなくなるという心配もあるが、果たして自治ということは、サービスを受けるというレベルでだけで捉えていいものかどうかということも考える。
例えば廃棄物問題が一番分かりやすいと思うが、廃棄物の処理及び清掃に関する法律、略して廃掃法と言うが、これは掃除の法律。目の前から消えてなくなれば、ごみはなくなったとずっと我々は思っていた。掃除してもらう、掃き清める、掃いて取り除くだけで、それをどうするかということを考えてこなかった。処分場がある間はよかったが、それが逼迫してくるとどうしようもない、駄目だということになる。誰かがやってくれていた。家の前にごみを袋に入れて出しておけば、ビンでもカンでも生ごみでもごちゃまぜにしておけば誰かがやってくれていた時代があった。それが掃除の時代だった。それが自治体のサービスのように、我々は実は勘違いしていたんじゃないかと思う。

○我々のごみは我々で処理しないといけないということが、ほんの小さな兆しではあるが、身についてきている。全部やれというわけではなく、行政がやる部分、企業がやる部分、それから一般消費者がやる部分というのがそれぞれにある。そういう自覚が我々の地域でいろんなことを決めて、それにタッチできるようになっていくと結果が変わってくるんではないかと思う。

○最初から地方の行政のスキルアップができるとは思わないが、我々が主体として動くことができる、東京経由ではなくて我々が主体として動くことになるとすれば、最初は非常に大雑把なオーダーでいいと思う。ぼやーっと、我々がやろうというところで、結局その隙間を埋めてくれるというところで、免疫機能が働くようにNPOが台頭してきて、行政と住民の隙間を埋めていってくれるような、そういう社会が自己増殖的にできていくのではないかと思う。それにはまず我々が主体にならなければいけない。自治を身近に取り戻さなければいけない。

○今現在、自治が身近ではないというのは、地方の首長選挙などの投票率の低さに象徴的に表れていると思う。その辺から、一票とか一票の大切さとかを、我々が地方の事業に参画することの大切さを、新しくそうするのではなくて、かつてそうしていたように、我々が例えば村の鎮守の神様のお祭りというのを、責任を持って、行政が事務局になって入ってくれなくてもきちんとやりおおせてきたように、本来の自治を取り戻すという意味においては、東京経由ではなく、近いところの自治の結果、それから自治の起点地と終点地というのが見える形で我々の前に、さあどうするんだという疑問符を投げかけてくれるような形になるのが望ましいのではないかなと思っている。

○これは行政だけの問題ではなく、住民だけの問題ではなく、今までPrefectureと呼ばれていた県、これがおそらく地理的な区分という意味だとしたら、先程昇先生もおっしゃっていたと思うが、州政府というのはGovernment。これは住民と行政の双方が、自らの意思の総体による、意思的な結合に脱皮していくという意味で、一つ一つ意思と行動の力を持ったかたまりを地方にもつくっていくということが大切ではないか。その中でこそ個々の自治への参画であるとか、個々の力というものも輝きを発揮できるのではないか。無責任に誰かにやってもらうのではなくて、自分達で地域を変えていくとか、自分たちで地域を運営していくことをとっかかりとして、自治が薄まるのではなく、濃くなる道州制というものをつくっていけたらと期待している。

 名古屋会場概要へ戻る