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源流から河口まで愛知県にある一級河川“豊川”は、県内に暮らす人々に計り知れない恩恵をもたらしてくれています。
飲み水を始めとする生活用水として、70万人以上の命と暮らしを支え、農業用水として、約18,000ヘクタールの田畑を潤し、流域の豊橋市を昭和42年以来農業生産額日本一に輝かせ、また工業用水として、愛知県の製造品出荷額27年連続全国一位に貢献しています。
“豊川”のすごさは、“清流日本一”、“遊べる川日本一”だけではありません。
豊川は、貞応2年(1223年)の海道記に「豊河」と記されているように、古くからその名が使われてきました。なぜ、豊川と呼ばれているのかについては、いろいろな説があります。
一例をあげますと・・・
- 古代、東三河は、「穂の国」と呼ばれ、穂の国を流れる川から、ホ(穂)⇒ホウ(豊)と発音が転じて“豊川”となった。
- “豊かな水量の川”⇒“豊川”となった。
- 古代渡来人の影響を受け、“豊の国の川”⇒“豊川”となった。
いろいろな説はありますが、今日まで、私達は豊川の豊かさの恩恵を受けてきました。“豊川”その名には、豊かな恵みに対する感謝の気持ちが込められているのかもしれません。
| 承和2年(835年) | 「飽海(アクミ)河」現在の豊橋市で呼ばれていた名称 太政官符より |
|---|---|
| 貞応2年(1223年) | 「豊河」 海道記より |
| 嘉禎4年(1238年) | 「豊河」 吾妻鏡第32巻より |
| 仁治3年(1242年) | 「豊川」 東関紀行より |
| 文亀2年(1502年) | 「豊河」 名所方角抄より |
| 天文2年(1533年) | 「豊川」 和歌藻塩草より |
| 元禄14年(1701年) | 「豊川」 牛窪密談記より |
| 元文6年(1741年) | 「豊川」 三河国二葉之松より |
| 寛政9年(1797年) | 「豊川」 東海道名所図会より |
・・・他にもいくつかあります。
日本の川は、河川法という法律によって管理されています。河川法でいう豊川の源流は、設楽町の段戸山のふもとを流れる澄川と寒狭川(豊川上流部の名称)の合流地点となっています。河川法は、流域面積の広い寒狭川の上流を源流としましたが、歴史的には別の考え方もありました。元文6年(1741年)の「三河国二葉之松」は、豊川の源流について、「設楽郡ノ神田山ノ麓二出テ」などと記し、宇連川(旧三輪川)上流部を源流としています。また、明治24年(1891年)の「本茂村誌」は、「豊川水源、当国段戸山、神田山等ヨリ発シ」として、寒狭川と宇連川のどちらも源流であるとしています。
中央構造線は、東京帝国大学(現東京大学)のドイツ人地質学者、ナウマン博士が明治26年(1893年)に命名した日本最大の断層で、関東北部から諏訪湖、愛知県を通り、紀伊半島、四国、九州に渡り、全長1000キロメートル以上にもなる“谷”です。豊川は、この中央構造線に沿うように流れているため、その生い立ちや独特の景観は、この影響を受けたものと考えられています。中央構造線の両側の岩石は、別の場所で生まれた全く違う種類の岩石のため、豊川流域では、その色の違いから中央構造線を見つけることができます。特に、新城市長篠の向林(むかいばやし)地区では、河川改修中に発見されたみごとな中央構造線を見ることができます。
豊川は、室町時代初期には、1年に8回も洪水をおこしていたと言われており、昔から“暴れ川”として、人々の命や財産を奪ってきました。なぜ豊川が“暴れ川”なのかその原因はいろいろ考えられますが、集水地域に険しい山々があるうえに、地表面の岩盤が固く、集中豪雨になると一気に水が流れ落ちることが主な原因だと言われています。
豊川の歴史は洪水との戦いでした。ただ、先人たちは豊川と真正面から戦うのではなく、水の勢いを抑え、利用することを考えました。この知恵の集大成が霞堤(かすみてい)です。(霞堤については、「とよがわとくらし」をご覧ください。)
昭和40年、豊川の洪水防止を目的とした三河湾までのバイパス水路、“豊川放水路”が作られました。これにより、洪水の心配は以前より少なくはなりましたが、自然の脅威は、時として我々の想像を越える場合があります。これからも先人に負けない知恵と努力で、かけがえのない命と財産を守っていかなければなりません。
豊川沿いには、水運と関係していたなごりが地名などに残っています。たとえば、新城市立舟着(ふなつけ)小学校の名は、近くを流れる豊川の舟着場からきています。
豊川の廻船業の始まりは、寛永5年(1628年)からと伝えられていますが、飛躍的に発展したきっかけは、正保元年(1644年)に菅沼喜八郎定正が開いた廻船問屋が、これまでの舟より小型で幅が狭く細長い、新型舟(鵜飼舟)を使ったことによります。これは、美濃土岐氏の流れをくむ菅沼氏が、岩礁で扱いやすい長良川の鵜飼舟を水運に利用したからだと考えられています。これにより、これまでむずかしいとされていた宇連川での水運ができるようになりまし
た。
しかし、明治に入り、鉄道や道路の整備により水運は減り、大正に入ると、300年近く続いた廻船業は姿を消していきます。
一方、豊川には、舟ではありませんが、材木を輸送するのための水運、「筏(いかだ)流し」がありました。古くは日光御用材を運ぶために行われていたようですが、近年では、明治後期、帝室林野局が段戸山の天然木を大規模に払い下げ、この材を運ぶために、筏流しが活用されました。しかし、昭和に入ると、木材を効率よく運ぶため、鉄道(旧田口線)が引かれ、筏流しは役目を終えることになります。(旧田口線については、「とよがわ今昔」をご覧ください。)
寒狭川と宇連川の合流地点に、その昔、長篠城がありました。天正3年(1575年)、織田・徳川連合軍と武田軍が戦った長篠・設楽原の合戦は、鉄砲隊と騎馬武者の戦いで有名ですがその攻防は、この長篠城で始まります。
長篠城を取り囲んだ1万5千人の武田軍は、城を守る奥平信昌以下500人をどうしても落とすことができませんでした。その理由は、豊川と中央構造線の存在が関係しています。長篠城は、北は深く掘り下げられた堀に守られ、東・西・南は寒狭川と宇連川に囲まれていたうえ、50メートルもある崖の上にありました。この崖は、城の北を走る中央構造線の影響で岩がもまれ、崩れやすい岩肌となっていたため、武田軍は登ることができませんでした。この結果、武田軍は兵糧(ひょうろう)攻めを選ぶことになり、このことが、鳥居強右衛門勝商(とりいすねえもんかつあき)の登場を呼ぶことになります。

強右衛門は、当36歳、現在の豊川市出身の下級武士でしたが、城の食糧が尽きる寸前、武田軍が見張る長篠城から脱出し、豊川を4キロメートル泳いで下った後、岡崎まで走り、信長・家康に援軍を求めました。大任を果たした強右衛門は、仲間を勇気付けるため再び、長篠城に戻ろうとしますが、途中、武田軍につかまります。武田軍は、城に向かい「援軍はこない。」と告げるように強右衛門に強要しましたが、強右衛門は、逆にこの機を利用して援軍が向かっていることを味方に叫びました。結果、強右衛門は、長篠城近くで磔(はりつけ)になりましたが、城は勇気付けられ、援軍を待つことになります。武田軍の武将落合佐平次は、敵ながらこの姿に感動し、その磔の姿を自らの背旗にしました。
新城市長篠にある長篠城址史跡保存館には、この絵の模写が展示してあり、430年前の強右衛門の最後の姿を伝えています。






