あいちdeニューノーマルの選択肢、半農半Xな暮らしガイド ー買うからつくるへー

実践者たち

農家×施設管理等の請負 実践者 星野克之

住んでいる地区[北設楽郡東栄町] 愛知県北東部の東三河地方山間部に位置し、花祭と呼ばれる霜月神楽の伝統芸能が残る。

住んでいる地区[北設楽郡東栄町] 愛知県の北東部に東三河地方山間部に位置し、花祭と呼ばれる霜月神楽の伝統芸能が残る。
住んでいる地区[北設楽郡東栄町] 愛知県の北東部に東三河地方山間部に位置し、花祭と呼ばれる霜月神楽の伝統芸能が残る。スマートフォン用
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星野克之さんの半農半Xのヒストリー

1977年新潟県長岡市出身、1996年長岡市内の土木会社に就職、2009年腰椎椎間板ヘルニアにより離脱、2011年春東日本大地震被災地でボランティア、2011年秋世界一周の旅に出発、2012年帰国後、東栄町に移住・ログハウスや米作りのお手伝い、2012年NPO法人てほへから業務委託、2018年地区100年の古民家購入、翌年より本格的にDIY開始、2020年7つの田んぼを開墾するところからスタート
1977年新潟県長岡市出身、1996年長岡市内の土木会社に就職、2009年腰椎椎間板ヘルニアにより離脱、2011年春東日本大地震被災地でボランティア、2011年秋世界一周の旅に出発 スマートフォン用
2012年帰国後、東栄町に移住・ログハウスや米作りのお手伝い、2012年NPO法人てほへから業務委託、2018年地区100年の古民家購入、翌年より本格的にDIY開始、2020年7つの田んぼを開墾するところからスタート スマートフォン用

半農半Xの一年

田んぼ:4月〜11月、自家菜園:3月〜11月、ふるさと納税返礼品制作:1月、絆プロジェクト舞台設営:3月、ブルーベリー農園準備手伝い・歩道工事・レーザー加工:4月、GWイベント企画手伝い・側溝工事:5月、菜園設備:6月、夏休みイベント:7月〜8月、壁塗り・土間コン工事・8月、太鼓志多ら交流祭運営・歩道工事土間コン工事:10月、東栄フェス舞台設営:11月
農業:40%、てほへ請負・作業請負:60%
星野さん家族写真

最寄りの施設

中学校車で15分、保育園園車で10分、コンビニ車で15分、飲食店車で10分、食料品車で10分、救急医療車で3分、衣料店車で70分、小学校車で10分、高校車で23分、美容床屋車で45分、職場車で15分、薬局車で30分、郵便局車で2分、ガソリンスタンド車で10分
中学校車で15分、保育園園車で10分、コンビニ車で15分 スマートフォン用
飲食店車で10分、食料品車で10分、救急医療車で3分 スマートフォン用
衣料店車で70分、小学校車で10分、高校車で23分 スマートフォン用
美容床屋車で45分、職場車で15分、薬局車で30分 スマートフォン用
郵便局車で2分、ガソリンスタンド車で10分 スマートフォン用

役に立った行政などの支援策

book

生きるために必要な食べ物と家は自分で作る。手放すことによって得られた自由でシンプルな暮らし

東栄町体験交流館のき山学校の写真、星野さんの写真

愛知県北設楽郡東栄町にある「東栄町体験交流館のき山学校」 閉校した小学校を利活用し、観光の振興や集落の活性化を目的とする施設だ。また、その名の通り色々な体験を通して、地域内外住民の交流を図っている。 NPO法人てほへが指定管理者となっている。 そのNPOからの請負で「のき山学校」の維持管理や、イベントの運営のバックアップなどに携わる星野克之さん。 個人経営者として多業種にわたる仕事を請け負う一方で、自分の住むための家を自分で建て、自分の食べるための米を自分で育て収穫している。
2012年に新潟から移住し、妻と二人の子どもと共に、東栄町での暮らしを楽しんでいる星野さんが大切にしているのは「自分が自分らしく生きられる人生」 震災ボランティアや世界一周の旅の経験を通して、彼がその考えへと至ったこれまでの経緯と、その信念を支える要素の一部となっている半農半Xについて聞いてみた。

のきやま文庫の写真
あしらい

故郷での土木の仕事は自分の性格に合っていた

星野さんの出身地は新潟県長岡市。学校を卒業した後に土木の仕事に就いた。 「職人のように何かをつきつめて行くことが好きだったのです。だから土木の仕事にのめり込みました。30代前半まで従事していました」
この時に得た土木作業の知識と経験が、のちのちの彼の生活を支える一端となり、自分らしく生きていくための手助けをもする事となる。 そしてまた、その時に知り合った色々な経歴の人から聞いた話が、広い世界に目を向けるきっかけとなった。

あしらい

自分の知らない世界がこの世の中にあることを知る

星野さんの写真

「長岡で30年暮らしてきて、世の中の大体のことを 知ったつもりでいたけれど、色んな人生経験をしてきた職場仲間が自分の全く知らない世界の話をしてくるのです。そんな世界があるのかと。知らない世界への憧れはそういうところからで、それが世界に目を向けたきっかけだったと思います」 土木の仕事には10数年従事したが、腰を痛めてしまい入院・手術などで長期の休職。重度の腰椎椎間板ヘルニアだったので、そのまま離職することになった。 失業保険を受給しながら、今後どうしていこいうかという状況ではあった。しかし、20代から抱いてきた「色々な国を見てまわりたい」という夢をかなえたい気持ちがつのる。そんな想いで世界一周旅行を計画していた矢先、東日本大震災が起きた。

あしらい

震災ボランティアで被災地に赴いた後に海外へ

「海外旅行へ行っている場合じゃないと思いましたし、自分が培ってきた土木の経験も、被災地で何かの役にはたつだろうという想いがありました。自身が付き合いのあるNGO団体を通して現地へ赴き、石巻で4か月間復興支援のボランティアをしました」 ボランティア活動を終わらせた後、2011年の9月に日本を旅立ち、念願の世界を周る旅へ出た。海外で約7か月を過ごし、見分を広め、翌年の5月には帰国の途へとついた。

あしらい

帰国したのち、東栄町へ来たきっかけ

ログハウスの写真

「帰国して最初に降り立ったのは大阪だった。 そこから各地のボランティア仲間のところを訪ねて回る旅に出る。 各地での仲間との情報交換の中に「愛知の山奥でログハウスを作っている」という話があった。それに興味を持った星野さんが、この東栄町の地に立ち寄ったのは2012年の7月のことだった。 この時にこのログハウスを建てていたのが、前出の「のき山学校」を管理しているNPO法人てほへである。 ログハウス作りに興味を持ち、知人を通じて連絡をとった星野さんだったが「忙しいからちょっと手伝ってくれないか」との依頼を持ち掛けられる。 てほへには寝食が保証された男子寮もあったので、ここでてほへの各種活動の手助けを始めることになった。 「東栄町へ来た時点では、雇用を前提に来たわけではありませんでした。自分としては居心地が良く楽しかったので、最終的には仕事として居続けられたら良いなと思いましたが、最初は、ただ興味本位で来ただけでした」 「今後どうしようかと模索している時期ではあったのですが、どこに行っても何をやってもそこそこやっていく自信はありました。うまくやれればいいし、もしも自分に合わなかったり、自分の好みでないということであれば去ればいい。そんな気楽な心持ちでいました」

あしらい

後を追ってきた妻と東栄町で結婚

家族の写真

その後、震災ボランティアの時に知り合った妻の弓夏さんも、星野さんを追って東栄町へ来ることになった。 「茨城出身の妻とはボランティアで出会い、意気投合して付き合いを始めました。」 「自分が海外旅行へ出た後も『ついて行きたい』との申し出があったので、途中から一緒に旅をして6か月を海外で一緒に過ごしました。」 ここ、東栄町へも彼女のほうから来たいとの申し出があったのだそうだ。 「妻が来たタイミングで男子寮を出て二人で家を借りて住み始めました、その後程なくして結婚しましたね。」 こうして始まった東栄町での星野さんの暮らし。 その後、二人のお子さんが誕生し、7歳と3歳の二人の男の子と共に4人で暮らす現在のことを聞いてみる。

あしらい

自分で住む家を自分で建てることが今の一番の夢

20代半ばから「広い世界を見てみたい」という夢を持っていた星野さん。その夢を叶えて帰って来た彼が、次に目指したのは、自分の住む家を自分で作り上げるということ。彼は今、その夢をここ東栄町で叶えている途中だ。3年前に中設楽に買った築100年を越える古民家を、自分でこつこつとリフォームしている。 自分も妻も田舎暮らしの希望があったわけではなく、なんとなくの成り行きでこの場所にたどりつきました。きっかけはそういったものでした。しかし、てほへの仲間や、地域の人々との縁や繋がりを大事にしながら、東栄町で生活していくうちに、この地に寄り添って生きていけそうだなという想いに至りました。 「自分で住む家を自分で作り上げるということは、自分がここにいる一番の理由かな。ここには、それをさせてもらえる環境がある」彼にとって仕事は目的ではないという。彼にとって大事なのは、生きるために必要な衣食住。そして、心を磨いていくような何事か。それを叶えるために必要なお金を、仕事で得る。「まずは自分のライフスタイルを通す。そしてその中に仕事が当てはまっていったらいいなという感じです」

あしらい

現在の仕事と家づくりについて

学校内の写真

星野さんは、てほへと個人事業主という立場で年間契約を結んでいる。年間の委託料が決まっていて、その中で請け負った仕事を行うのだ。仕事内容は多岐に渡る。メインとなるのはのき山学校の利活用にかかわるところ。建物の維持管理やイベントのバックアップなども行う。毎月の理事会でその内容はお互いにシェアをする。「極力、やりたいことを一緒にやれるという環境で仕事をしています。てほへの仕事以外には町内の人からお願いされた仕事を、何でも屋のようにしています。」 個人からの依頼で、家の土間を打ったり、知り合いの会社の応援要員を引き受けたり。土木関係の仕事はもちろん、建築や木工、庭仕事なども引き受ける。そこには故郷で従事していた土木の仕事の経験が活きている。 「自分は、毎日その仕事が無くて困るという状態ではないので、自分から売り込みに行くことはしません。困っている人がいるところに行く感じで引き受けています」

彼が、それぞれに割いている時間的な比率としては、てほへの仕事、頼まれごとの請負仕事を合わせて5割。農業はスリム化を目指して2~3割。そして残りが家づくりにかける時間だ。収入の割合を半Xでいえば、3分の2くらいがてほへの仕事。頼まれごとの請負仕事が3分の1。 家づくりのために仕事に割く時間を抑えている。頼まれごとの仕事は積極的にはしていなくて、本当に困った人のところに行くくらいだ。 「収入にはならないが、家を作るという行為はそれ自体に価値がある。人に頼めば1000万円かかる作業を自分でやれば、2~3年かかっても、1000万の収入を得たことになると思っています」 家づくりについては、大黒柱の高さを上げたり傾きを直したりもした。一人で出来ないところは、応援を頼んで手伝ってもらったりもするが、できるところは自分でこつこつと時間をかけて作業している。床の下地を作り、風呂を作ってトイレも作る。もちろんキッチンも。 下の子どもが赤ちゃんの時には、家の中に安全な場所を作り寝かせて、子守をしながら夫婦で作業を続けてきた。二人の息子は幼い時から、父親と母親が自分たちの家を作るところを日常の光景としながら育ってきたのである。今では、父の見よう見まねで上手に金づちも使える様になった。

作業場の写真
子供たちの写真
あしらい

自分の身の回りのことを自分でまかなうということ

「昔であれば、自分で食べるもの、自分が住む場所、そういった衣食住を自分でまかなうのは当たり前のことでした。今は、そのそれぞれが専門化していると思うのです。 それぞれのプロフェッショナルがそれぞれの分野で対価を得て、その対価を使ってほかのプロフェッショナルが作ったものの恩恵を受けている」 「でも、元は自分をはじめ、家族や親族といったところで生活が完結していたでしょう。家だって、直す必要があれば、近所の人が集まって一緒に直すのが昔からのあり方」 そういうことに惹かれたのかな」 「家にしろ、食べるものにしろ、自分が好きなものを作ればいいじゃないですか。自分が作りたいものを、作りたいように作ればいいし。売るのではなくて。それだったら楽しくできるなというのがありましたね」 その思いは、自分の田んぼで育てている米や、弓夏さんが育てている野菜にも表れている。

あしらい

今の米作りを始めたきっかけ

畑と星野さんの写真

星野さんが米作りに初めて接したのは2012年のこと。 てほへの活動で米作りをすることになり、その一環として田植えや稲刈りを経験した。 長野県の村と交流をして、通うようになり、忙しい時期にはそこでバイトもした。自然農法で米作りをする人もいて、育て方の手法にも興味がわいた。 「向こうでできた知り合いのところに手伝いに行きました。 忙しいのは田植えと稲刈りですね」 毎年手伝いに出かけながら、米作りの経験を少しずつ積んでいった。 その後、自分の地域の人に共同の米作りに誘われて、そこで慣行農法の勉強もする。 そういった経験をふまえたうえで、彼が自分たちのための米づくりを始めたのは昨年からだ。 彼にとって農業とは「今後いつかは始めるかもしれないけれど、それは今すぐじゃない」そんなふうに思っていたし、彼にとっては家づくりのほうが優先だったからだ。 ところが、昨年のコロナ感染の影響で、てほへが手掛けるイベント関係の仕事がほぼ無くなってしまう。星野さんも他のメンバーもスケジュールが真っ白になってしまったのだ。 「仕事は無いが時間はある。この先の生活も不安だから、お米を作れば少なくとも秋には食べられる。そんな安心感が米作りを始めるきっかけになりました」

「自分一人ではじめる気は無かったが、皆でやるのだったらやってみようか。そんな形で昨年始めたのがきっかけでした。幸いその後は、てほへの活動も少しずつ戻ってきているので、今は自分が主となって田んぼの面倒をみています」 「もともと米作りはいつかはやろうと思っていたし、一人でも形を変えてできることもある。忙しくても、できる何かを学んでいくのは大事という想いもあります」

あしらい

自分のできる範囲でのやり方で

何年か前に、ほかの方々と共同で慣行農法での米作りを経験した。 その時は、なぜ農薬を使うのか、なぜそういう作業をするのか。そういう事を勉強するつもりで言われた方法でやっていた。 「慣行農法で効率よくお米を作るには大掛かりな機械が必要なんですよ。耕運機があって田植機があって。乾燥機やコンバインも必要です」 今回の米作りで、自らが手掛ける田んぼではそういうものではなく、なるべくシンプルに小さくコンパクトに進めたかった。そうなると必然的に手作業が必要となる。 「昨年はその手作業をしっかりとやってみたし、その結果をふまえて今年はそれを実際に生活の中に落とし込んでみました。米作りに時間を取られたら仕事にも支障が出てきますからね」 自分の生活を主として、具体的に可能な範囲で米作りをしていくにはどうしたらいいのか。 シンプルにどれくらい手を抜けるのか。そんなことを考えながら今年は米作りをしているという。 「今は7畝くらいを育てています。去年はミネアサヒでしたが、今年はイセヒカリを育てています。自分で種を継いで行きたいからです」 ミネアサヒは農協で管理をしていて、権利があるので毎年種もみを農協から買い取っていかなくてはならない。そうではなくて、自分で食べる分を次の年へと継いで行きたいのだ。 来年は今年の経験を活かす。農薬は使いたくないし、化学肥料も極力使わない。この地のこの環境で、自然と調和していけるようにと試行錯誤を続けている。 こういったところにも「売るためではなく、自分が自分のためにすることだからできる楽しさ」が活きてくるのだろう。

あしらい

自由と引き換えに手放したもの

星野さんと畑の写真

生活を大切にしながら仕事をして、家を建てる。自分たちのために米作りも楽しむ。 自分で望んだわけではなく、自分の信念のままに生きてきた先が半農半Xの暮らしだった星野さん。 はたから見れば自由に生きているように見えるだろうが、その暮らしと引き換えに手放したものも、もちろんあるはずだ。 「会社員として働くということは、敷かれたレールがあって、保証された中で生きていくわけです。必ず固定給が発生して、辞めれば失業保険がある。病気になれば保険が受けられる」 「人生において不安はつきものです。世の中、行動を起こすきっかけはそういった不安を打ち消すためだし、皆が安定した会社で働きたいのはそういう事だと思うのです」 彼にとっての今の生活は、その安定と安心感を手放し、不安を乗り越えた先にたどり着いたものだ。 「みずからの意志で一歩を踏み出す覚悟が必要だけど、それができた人はすごく楽だと思うのです。全部自分で決めてやっているから、言い訳をしないので。誰かに言われたのではなく、会社に指示されてやっているのでもない」 「もちろんその先にあるのは全部自分の責任だし、大した保障もなくて、病気になったら次の日から路頭に迷うかも知れない」 「自分もその一歩を踏み出す時には、意識して怖い気持ちを越えていこうと思ってきました」 世界各国を旅して、海外をいろいろと見てきたが、日本は平和だしすごく保障が厚い。 今までの経験をふまえての事でもあるが、日本であれば、自分は何をしても生きていけるだろうという想いもあったという。

「何かについての保障など、不安な事も多いと思う。でも、半農半Ⅹを選ぶ事によって得た自由の下で自分がやりたいことを選んでいく。食べるものでも作るものでも何でもね。それは自分が自分らしく生きられる生きかた。そういう暮らしができるという魅力をありがたく感じること」

あしらい

保障のない中でも、不安を手放して安定した気持ちでいられる源泉は?

「手放せる覚悟があるということかなと思います。何かにしがみつく人は、手放すことに不安を覚えると思うのですよ。無くなることへの恐怖が大きい。そういうこだわりを減らしていけるほど、自由を得られると思うのです」 「震災のボランティアでいろいろな状況を見てきました。そこでの経験も自分の価値観に大きな影響を与えていると思います。どんな事をどんな状況でどう上手に手放すか。物も気持ちも色々なものすべて。それらを潔く手放せる人は自由に生きられるのかなと。」 今の生活についても、それはあてはまるのだという。 形は変わっていくものなので、その時々で形を変えていくだろうし、付き合い方も変わって行くだろう。お互いがちょうどいいと思える付き合い方をしていても、いよいよどうにもならなくなる事があれば、場所にも家にもこだわらず手放せるようにしておきたい。

あしらい

執着しない、こだわらない

結果的に半農半Ⅹを後押しすることになったその価値観は、被災地で出会った震災ボランティアの影響も大きかったという。個性的な面々の話を沢山聴けたことはとても参考になり、今の彼にとっての大きな力となっているという。 その時に影響を受けた人々のように、これから半農半Ⅹを始める人達へ、自分から送りたいメッセージがあるかどうかを聞いてみた。

あしらい

これから半農半Xを始める人たちへ

家族と家の写真

「安定した暮らしは良いと思うのですよ。保証されている暮らしは安心だと思うのですけど、勇気を出して一歩を踏み出すと、本来の自分らしさを取り戻した暮らしができるのではないかなと思います。どんどんそういう人が増えてほしいですね」 農業や仕事だけの話ではない。 たとえ話になるが、彼の海外への旅の途中でもそういう事があった。 「旅先に降りた瞬間から自由なんですよ。何をやるのも自由。 その反面、その自由には何の保障もなく、全てが自己責任。大事なのは自分の判断力。自由って怖いなと思いました。 移動手段、その日の宿、定価の存在しないものへの金額交渉や誰を信じるのかまで何もかも。全部自分で決めなければならない。 そういった行動の全てに自分で責任を持つことで、新たな楽しみとか、自分のやりたいことができる自由が待っている」 「高校を卒業したら、ただ大学に行くとか、ただ働くとかの生き方を選ぶのではない。自分でやりたいことをするために、自分で責任を取るということが、自由に生きるということ。そこを理解して踏み出せた時に、もっと人生が楽しめるのではないかなと思うのです」

自分が食べる米を自分で作り、自分が住む家を自分で建て、自分が自分らしく生きられる人生を送る星野さん。
その父の姿を見ながら日々、子どもたちは成長している。